2011年12月24日土曜日

終戦物語

いろんな 事があり暫く休んでいましたが又新しい気持で書いてゆこうとパソコンに向かいました、今年もあと少し何とか歳を越えてむかえる新年に挑戦していきます。


老いたれど 戦のかたり ブログにて 命ささげし 戦友のおもいを

20歳で入隊 ひと月ばかしで終戦 シベリヤ抑留3年 過ぎ去りし年月を振りかうれば
全て夢の様です、今では多くの戦友 友人もなくなり 昔を語る友もなく 複雑な思いです、86歳

2011年12月9日金曜日

終戦物語 市街の殆どが焼きつくされ

******************ここから*************

東京都   高瀬 吉佐子

終戦、それは市街の殆どが焼き尽くされた熊本市大空襲の5日後の事である。まだくすぶる我が焼け跡に両親と佇み、私は女学生2年。両親の号泣が耳に残ります。

玉音を賜ふ 焦土の盃蘭盆会


大阪府  山名 又助

昭和20年8月私は、熊本市御船町小学校にて、歩兵第522連隊第一大隊長として。本土防衛の任に付いていた。8月1日小学校は爆撃をうけ、20数名の戦死者を出した。15日遺骨をもって御船駅にて終戦の玉音を拝聴した。

蓑虫も 泣きしか8月15日


熊本県  西村 行夫

当時、日本通運宇土営業所長。数日前の空襲で鹿児島本線緑川鉄橋が落ち、列車不通。トラックを持っていたので、闇の食料をあさって来ては、分け合うるのが仕事だった。夕刻非常呼集して、終戦を伝えた。兄が沖縄で戦死していた事も、当時は知らなかった

吾の召集 なきを妻言う汗も拭わず

兵庫県  吉田 陽美  

昭和20年6月10日、鹿児島18部隊【歩兵】に入隊、沖縄決戦出動の為の訓練を受けていたが、戦局不利になって急遽熊本県八代の山奥の農村に駐屯して、本土決戦に備えて、山腹の壕堀をしていた。食糧難で、甘蔗が常食の毎日であった。

崩れしわ 不滅の神話敗戦忌


***************ここまで***********

引用元   「昭和万葉俳句前書集」   【高木 二朗発行】

2011年12月5日月曜日

終戦物語 皆死必殺を期しながら

****************ここから************

大阪府   川淵 勇

鹿児島県岩川海軍航空隊鉾  部隊淡路隊で防空隊勤務。25ミリ機銃員として空戦闘を行このう。8月15日の終戦も知らされず訓練を行う。又、戦死した戦友を数多く茶毘に付した。 

敵機去り ほっと一息蝉の声


新潟県   渡辺 賢一

終戦の日、私わ鹿屋海軍航空隊で神雷特別攻撃隊として即時待機の命を受けていた。飛行機は7機在るのみ、終日無気味な沈黙が続いた。なお、終戦を知らされたの
は17日であった。当時私は予備学生出身の零戦搭乗員であった。

待命下 蟻と戯る特攻兵


福岡県   鹿児島 泰蔵

8月15日早朝、薩摩半島伊作町と谷山町を結ぶ国道植上の杉林の中に在る野営地を出發して、池田湖畔の軍弾薬集積所に向かった時の」弾薬受領」という武者震いにも似た、緊張感は、終戦の聖勅と共に一方も無く崩れ、放心にもにた気持で帰途を急ぐ。何で負けたのか、やはり物量戦に惨敗だ。苦やし涙が込み上げてくる 。最初の応召で中支、北支を駆け回った記憶がよみがえる。二度目の応召は原隊で、そして三度の応召に******ささやかな私一人の軍歴が泡の様に消え去った。これからの日本はどうなるのか。故郷の年老いた両親をどう護ってゆけばよいのか。そして自分は。

終戦日 消えし手牒の兵事歴
***************ここまで***************

故郷の年老いた両親を案ずる気持に 私は涙が出ました、親思う心に歳を重ねて有難く感謝あるのみです


引用元  「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】

2011年12月4日日曜日

終戦物語 走り書きの意書

***************ここから**************

徳島県  園田 とく子

内務省勤めの夫は広島に単身赴任で、幼い4人の子供達と徳島県那賀郡富岡町(現阿南市)にいた私は、広島とは何んの連絡もとれぬまま、終戦日を迎えました。私のくるのをひたすら待ちながら、終戦から10日後にこの世去った夫の意書は、紙切れに鉛筆のうすれた走り書きでした。終戦がもう10日はやかったら*******といっも思います

敗戦日 ただ抱きしめし末っ子よ


奈良県   森 博

昭和20年8月15日いた場所、徳島県麻植郡鴨島町喜来365番地。私は中学生であつたが、出征して人出が不足している農家へ勤労奉仕に行っていた。その日教師
は、生徒に休戦になったといった。誰かが戦争に負けたのだといった。負けたなどといつたら、憲兵にひっぱられるのでないかとおもった。

終戦日 玉音聞いて口噛む


兵庫県  松谷 俊弘

徳島市場町の特攻基地で玉音を聴いた。予科練(13期甲)を松山航空隊で卒え、徳島海軍航空隊に転勤後、滑走路1本だけのこの基地勤務となった。敗戦を知った後は同僚たちと、ただやけ酒をあふるだけだった。

武装解かれ 積まれた基地の蝉時雨

****************ここまで************

引用元 「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二郎発行】

2011年12月3日土曜日

終戦物語 修羅場とは

****************ここから***************

徳島県  大野 文平

山口県光工廠にて徴用工員として再三敵機の攻撃を受けしも、8月8日の正午敵機二00の襲来に遭い、五万の徴用工員右往左往、数千人の死傷者を出し、夏の列風にあふらるる世の修羅場とはこんな事か、嗚呼終篇の地ならんや。 

茶毘に 付す僚友夏の夜も三日

徳島県  樫本 浩三

山口県光海軍病院入院中、八月一四日午後一時に光工廠が空襲を受けた。八月一五日は病者に取っては看護婦代わりの戦場みたいな状況で、記憶によると、この二、三日は血と水を欲しがる傷者のうめきは棲ざましきもので、玉音放送は全然しらず。

向日葵や 傷者に水をやる病者

大分県  福田 重己

当日、下関市は二度の焼夷弾空襲で焦土と化ししたるも、安徳天皇の御陵だけのこる。北浦の日本海、玄海灘は魚雷空爆で、艦船の沈没波にさらわる。関門海峡は、
当時は隔日置きに魚雷降下のb29に来襲され、終戦後もしばしば触雷轟沈するものありし。私、下関機関区(鉄道)在

触雷に 船や逆立つ終戦日

****************ここまで*************

引用元  「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)

2011年11月29日火曜日

終戦物語 新京一中生徒

******************ここから**************
 長崎と満州での終戦記事

日課は朝食前に燃料用の羊草刈りの作業があり、学習時間を取ってその後の作業にいる。6月は主に南瓜畑や小豆畑などの雑草刈りや水田の草取りなので、7月は麦刈り作業中であった、動員は2カ月り予定で7月28日には帰校するはずであったが、学校から「在満教務部の指示により当分の動員期間を延長をする」の電報が届いた。

学校との詳細な打ち合わせの為小川教官は8月4日農場を出発し8月9日を迎えた。小川隊と斉藤隊を斉藤教官が引率して東寧駅に到着した時は、避難列車は既に発車した後で、歩いての苦難の逃避行が始まった

斉藤教官は、先発隊を出して状況把握と安全確保に努め的確な判断で生徒を引率している。途中満州国警官から「安全な道はここから山むこに入り朝鮮の図門え逃げる道しか無い」と南下の道を勧められたが、斉藤教官はうっそうとした森林をみて北上の道へとむかったが正しい選択であった。また幸運にも直接戦火に合わず、万歳峠
、大城廠を経て石頭に到達した8月18日の夕刻に敗戦をしる。

21日、東京城の守備隊兵営でソ連軍の捕虜となる。日本軍の兵士や義勇隊の18歳以上の者と、斉藤教官も有無もいわさず連れ出された。生徒は指揮官を失ってしまったが、生徒の中から小川小隊は古畑を、斉藤隊は福井を小隊長に選び全体の指揮を古畑がとることにし、外に副官3名付けた。指揮系統を明確にし結束を図り団結を維持している。

10月12日、捕虜から解放の身となり東京城を古畑の指揮の元に出發、再び北頭、寧安を経て16日に牡丹江に到着する。18日ハルピン行きむの貨物列車に乗り込み、ハルビンを経由して乞食同然の姿で新京に帰り付いたのは10月20日であった。
逃避行中の移動・飢えや雨や寒さに、逃避行や収容所での非衛生な生活などで、収容所に残した衰弱者のうち死者も2名あり、又4名は消息がつかめず生還出来なかった


茶臼原農民道場の設立は昭和9年10月1日。設立の趣旨は、当時の農村の疲弊困憊を打破するために、中堅人物を養成することにあった。

道場の修練期間は青年部が1年、短期生が10日間であった。本道場で修業した者約2千人。昭和13年4月1日には、満州農業移民訓練所が付設され、満州農業移民団員の開拓訓練が行われている。戦後農民道場は高鍋軍馬補充部跡に移転。昭和
21年6月緊急開拓事業の一環として開拓農場として復員軍人軍属、海外引揚などの、開拓農業志望者(126人)の農業技実の訓練を行っている。
その後高等営農研修所となり、昭和47年より、農業大学校として県の農業発展と後継者育成に果たす役割は大きい。(宮崎大百科より)

*****************ここまで***************

引用元「えびの市史談会史談史45号」(大牟田一成記事より)

2011年11月28日月曜日

終戦物語 東京の中央政府機関かその機能を喪失

****************ここから************

東京都   武籐 文雄 広島県

終戦直後、東京の中央政府機関がその機能が喪失した場合の為、地方ブロックごとに地方総監府を設け、府県及び政府出先官庁の一切を指揮する事になり、私は総監秘書官として広島に赴任しました。しかし、その機能を発揮する前に原爆に遭い、総監をはじめとし多数の殉職者がでました。私は九死に一生を得、まもなく8月15日を迎えました。当時の事は生涯私の脳裏を離れません。

終戦日 被爆のドームとこしなに

京都市  薄木 千代子  広島にて

終戦当日、広島で被爆した夫の看病をして広島にいました、電車の中で原爆に遭った夫は、一見無傷でしたが、次第に喉、胃とい痛み、兆候が現れ、被爆人ばかりで病院も手足らず、医者も手当ての分からぬ有様で、井戸水を貰い、冷やすぐらいしか出来ぬ始末でした (30日逝く) 合掌

被爆夫 とおほみこと聞く終戦日


****************ここまで**************

引用元  「昭和万葉俳句前書集」 (高木 二郎発行)

2011年11月27日日曜日

終戦物語 戦争は負けたんじゃ

****************ここから************

愛媛県    木口 さだお

敗戦の日、呉海軍工廠の工員一員として、徹夜作業のあと、睡眠中に終戦詔勅が、放送された。下宿のおばさんが「戦争は負けたんじや」と話しているのを聞いて飛びおきた。それは真実であった。b29 は悠々と定空を飛び、人々は虚脱したように焦土をよろよろとあるいた

敵というもの 無くくなりし雲の嶺


山口県    高野

終戦物語 飛行機は一機も無く

北街道    高橋 春男

当時。鹿児島県鹿屋海軍航空基地付近に散開、壕内生活の毎日。連日、空襲のため、飛行機は一機も無く、総員特攻肉迫戦闘員となり、昼夜問わずアメリカ軍の上陸に備え臨戦態勢にあった。終戦当日は炎暑、長い一日であつた。

飛機も無し 撃つ弾丸尽きて壕暑し

2011年11月25日金曜日

終戦物語 焦土と化した現世とは思えない

***************ここから************

山口県    板谷 政典

下関の造船所で、海軍の将兵らと人間魚雷を製作中、敗戦にと同時に人間魚雷を開門海峡にしずめにいったまま、帰らず人となった若き海軍の下士官等が痛ましい。

炎天下 人間魚雷 沈め逝く


山口県   後藤 いそ子


21歳青春盛りの終戦日でした。友達となけなしの毛糸を出し合って特攻人形を作り、中乃町の暁部隊に届けたり、夜ごとの空襲警報に、モンペの奥をぞろぞろと虱が這い回ったり、妙にしんかんとした静かな終戦の昼の空でした。いびり大豆を食べ過ぎて腹が下り、ソ連兵が上陸する噂にもがいた物です。

雑貨屋の跡の大穴終戦日

山口県   斉藤 美智子

山口県三隅町で終戦。連隊旗手の夫が軍旗を焼いて戻った日、自決も考えて拳銃の使い方を習う。其の夜、広島から無傷で帰隊した将校が一夜で死亡。童貞で征つた弟は、一片の骨も無いままついに戻らず。命得手複雑な涙を流した日でした。

恋もせで 征きし弟青林檎

山口県   前田 律子

当時、私わ主人の徴用令により、山口県光市に住んでおりました、沖には回転基地、街には海軍工廠がありました。工廠が爆撃されて幾百人もの人が犠牲になったのは、終戦の前日の事です。翌15日に終戦の玉音を拝聴した後、海にでて痛切な黙祷をささげました。

砂に残る 幼き手型終戦日

***************ここまで**************

引用元 [昭和万葉俳句前書集」  (高木 二郎発行)

2011年11月19日土曜日

終戦物語 大和魂のみでは

****************ここから**************
 満州    神奈川県 吉田 正義

ソ連軍国境突破、侵攻により、満州国立中央特別連成所生3,200余人は、召集令一片により、戦闘要員となり、関東軍教育班員が中概となり、臨戦態勢をととのえる。各所に歩哨地、戦車壕を堀りて防戦態勢なるも、火器少なく、他の装備も悪かった。

大和魂のみではどうにも鳴らない、職業軍人は一人も無く、召集兵のみでは、悲しい極みであった。満州国立中央特別錬成所福所長

汗に泣き 夏草刈りて土壕ほる 

広島県   林 つぎ

昭和20年8月九日ソ連の参戦、爆撃を受けつつソ満国境の東満総省より、五月生まれの嬰児を抱き、リユサックを背負い、着のみ着のままの姿で避難民となり、新京の小学校に収容さのました。主人は応召中でした。

炎天にたどる 異国の収容所

*******************ここまで***********

引用元  「昭和万葉俳句前書集」   (高木 二朗発行)

2011年11月18日金曜日

終戦物語 全員無事内地に帰還せよ

****************ここから***************

南部朝鮮  群馬県  野口 とよ子

朝鮮江原道春川緑ケ丘国民学校【日本人学校】にて三年生の担任。8月15日の放送は、全職員ラジオの置かれいた宿直室に集合し玉音を聴き、一同泣く。外地なる故ただ泣いてばかりはおられない、直ちに全校児童を一堂に集め、学校長より敗戦を伝え「全員無事内地に帰還せよ」と激励して解散。

日盛にチマ す終戦日


東京都     前田 雅子

朝鮮京城府梨泰院町で主人臨時召集のため生後7カ月の長男との二人暮らし、前日の予告で隣組集合、ラジオを囲む、その時負傷兵護送に外出許可を得て主人帰宅。皆驚き共に泣く、玉音放送なので始めはわからなかったが、暫くして負けたとわかり
皆泣いた、ふと北鮮にいる両親友人のこと、明日からの事を思った。長い一日だった

軍服に 泣き出す嬰児鳳仙花

千葉県   岡野 修

釜山港より木造漁船で引き揚げの際、玄海灘で船のエンジンが三回故障しました。当時子供でしたが、敗戦、学校閉鎖、引き揚げ後の生活不安と期待で、漂う船の中から揺れて大きく動く星を眺めていました

エンジンがとまりて あおぐ流星。

*****************ここまで**************

引用元  「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二朗発行】

2011年11月17日木曜日

終戦物語千人針の歌

*****************ここから************
 宮崎県    長谷敏通


戦争に出征して行く人達に心こめて送った千人針の歌

橋のたもとに町角に 並木の路に停車場に 千人針の人の数心こめて運ぶ針

とび行く号外鈴の音に 胸は湧きたつ引きしまる どうぞ一針兄のため
背の君の為 叔父の為

人は変われど真心は みんなひとつに国の為 私も一針縫いたいと
じっとみている昼の月

私が子供の頃 父が出征しました、当時の事を忘れる事は出来ません
、時は流れて私も腹に巻いて入隊しました、父も南から内地に向かう船が魚雷にあたり、船は沈みましたが無事呉港に裸姿で上陸したとききました。私もシベリヤ抑留3年
命を取り留め舞鶴港に帰り着きました、70年前の歌ですので間違いが在るかもしれませんが。昔を偲ぶ忘れされ様としております

*****************ここまで***********

2011年11月11日金曜日

終戦物語 宝物の様な砂糖を嘗めた

************ここから**********
東京都   熊倉 ともこ

当時陸軍製紙廠足利利工場に勤む。敗戦の夜、糧秣倉庫があけられ、寮生に砂糖が配られた。寮の縁に腰掛け、宝物の様な砂糖を嘗めた。昼から泣き通し、泣き疲れ混沌とした15歳の頭の上に皓々と輝く夏の満月が永遠の光を投げていた。

夏満月 敗れし山河あまねくし


東京都   佐藤 一雄

宇都宮の兵営を出發したのは15日の早朝だった。車窓から荒れた風景が飛ぶたびに胸が痛んだ。父母のやっれた顔に出会った時、言葉はなかつた。巻脚袢をはずして
いると、母は「戦争は終わったんだよ」と言った。

敗戦を 背に片蔭をさまよへり


愛知県  高柳 善明 

栃木県黒磯町で終戦。陸軍一等兵の私は、敗戦を信じない殺気だった上官の命令で、本土決戦に備える為の兵器を、防空壕へ運び続けた。濠から眺めた空の青さと、泣き明かす蝉声が今も忘れられない。

父ははの 空戻り来ぬ終戦日

***********ここまで*********

引用元  「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二郎発行】

2011年11月9日水曜日

終戦物語 昼ご飯も喉もとをらず

******************ここから*************

福岡県   池辺 芳子



学校勤務の良人を北九州の戸畑に一人いてもらい、私わ幼い4人の子供と共に田川郡の田舎の村に疎開して畑を造り、農家から分けて貰った米で残飯は、干飯にして本土決戦の折りの食糧に蓄え足りしておりました。降服の報に接し、子供とかこんだ昼食も喉かとおらず、蝿がたまるままで有ったのを思い出します。 

決戦も せぬまま無念干飯櫃


福岡市在住 城谷 文四郎 

福岡市立第一病院長。正午陛下の御放送を汗と涙をもって拝聴。進駐軍に備え、患者、看護婦の手配。自らも院長として病院と運命を共にすべき院内に残瑠。 崎八万宮に詣で、勅額の伏手鬼門を仰ぎ涙が止まらなかった。


勅額の伏敵門下汗滂沱 



福岡県   亀山 正義  


学徒出陣の幹部候補生として久留米予備仕官学校に在り、連日激しい肉弾戦の訓練をしていました。空襲で瓦礫と化した市内で作業中に終戦の詔勅を聴き、若い血のたぎり押さえ難い気持でした。


御紋章 削りし銃身陽に灼くる。


***************ここまで************


引用元   「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二朗発行】

2011年11月8日火曜日

終戦物語 第5航空艦隊司令官宇垣海軍中将特攻機に搭乗

******************ここから***************

大分県     奈良県  川南 芳三

終戦前、私は海軍の特攻隊員として、大分海軍航空基地で待機していた。昭和20年8月15日、終戦の日夕刻、第5航空司令官宇垣海軍中将は、幕僚、部下の中止の制止も聞かず、沖縄特攻を行うことになり、701航空隊爆撃隊長中津留達雄海軍大尉の操縦すする艦爆機に搭乗し、沖縄の米艦船に特攻攻撃を行った。なを、長官と行動を共にした特校機11機のうち、8機が突入し、3機が不時着した。

戦終え 部下待つ空の沖縄へ


大分県  臼杵市  甲斐 フサ子

大分県立三重高等女学校4年生。大分第12海軍航空廠に動員学徒として、射撃機、爆撃機の修理、製造をしていた。激しい空襲に、若い命を散らす学徒も少なくなかった、しかし、8月15日、ただ青い空ばかりの空であった
秋立つや 機影空から 消ゆるとき

引用元   「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二郎発行)


**************ここまで***********

2011年11月5日土曜日

終戦物語 ああ終戦なのだ

************ここから*************
 千葉県    足立 いね

本土決戦を覚悟した兵二人を吾が家に泊め、兵一人と私は、陛下の御詔勅を聴きました。頭を下げた兵の口より「ああ終戦なのだ」とつぶやきに唯ぼんやりとした自分でした。其の兵隊は金沢の人でした。後日一枚のハガキをもらいました。

星月夜 仰ぎて悲し香手向け

東京都   北海道   高木 ナツ

東京都渋谷の日赤産院に卒業後勤めておりました。日一日と激しくなる情勢の中で、
勝利を信じ、薬品不足の中で、精一杯の看護業務でした。人生唯一度の青春を捨てての明けくれ、そして玉音の放送****。過ぎ去った日々をいとおしみ唖然となり、やり場のない気持ちをつと持っていました。口紅を、涙を流しながら思いきり引き、
鏡をみっめました。同級生5,6,人で無断で皇居前へ出かけました


玉音に 滂沱の涙青春惜しむ



東京都   埼玉県 千鳥 槌子


私わ、日本赤十字社691救護班として応召、東京世田谷第2陸軍病院勤務中、空襲で大部分焼けたるも、勤務病棟が焼失を免れ、終戦を迎える、続いて、引きあげをかねた病院船第1号に配属、舞鶴より出港、 機雷に2度ぶつかり、命からがら朝鮮、フイリッピンに航海す。

戦果つ 続く勤務の引揚船

***************ここまで*************

引用元   「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)

2011年11月3日木曜日

終戦物語私はまだ父の戦死を知らず

*****************ここから*************

徳島県   佐光 典子
父の出征後、過労で倒れた母と私達姉妹は、徳島県小松市の母の実家に身を寄せていました。辺りは農村、9歳の私はまだ父の戦死したこともしらず、干梅を口に含みながら、いつになくしずかな村に異様な零囲気を感時じていました。

勝利者へ 幼き敵意花かぼちや


徳島県  芝 利勝  


当時私は40歳の老兵て゜゛応召し、本土の護土部隊として配属され、徳島県の南部沿岸警備の為、敵の上陸阻止に備えアンバン作戦と称し、一身をもつて敵戦車一りょうを破壊する訓練に明けくれの毎日であった。

敗戦や 仮寝の夢の蚤虱


徳島市  志満 加芽枝

昭和20年7月3日夜半より4日未明にかけて、徳島市内米軍機の空襲。町の大半全焼。当時徳島医学専門学校付属病院(現医大)看護婦として勤務。病院全焼、着のみ着むのまま呆然もつかの間、被災傷病市民の救急処置にと富田小学校を仮救護所として、医師、医学生、看護婦一丸となり救護活動を続けました。

炎昼や 針合針は木綿針


**************ここまで*************
  引用元   「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)

2011年10月29日土曜日

終戦物語ソ連軍が新京を占領

*************ここから*************

宮崎県   新京【現長春】  関口 妙子

私は昭和19年4月から、満州電信電話局に入社して下牟田さんと同じ新京電話局に交換係として勤務しました。講習を終えてから寮をでて、兄夫婦の家から電話局に通勤していました。兄は電信局に勤めており、兄嫁産婆「現助産婦」さんでした。

ソ連軍が新京を占領した当時は、避難した日本人家屋の家財道具を満人が持ち出し、ソ連兵は時計、万年筆などを奪い、女性を連れ去ったりして、恐怖におののく毎日でした。ソ連兵がきた。と聞いたら家の床下に隠れていました。落ち着いてからは、今までの様に兄嫁は産婆として満人の子供を取り上げて、私は付き削いで行く様になりました。お陰で満人には親切にしてくれました、食糧には困りませんでした。兄夫婦と一緒だったので、本当に運が良かったと思いいます。兄夫婦と一緒にコロ島から 
博多港に、そして故郷に帰ったのは、終戦から一年目の昭和21年8月15日でした

引用元 「えびの市史談会第45号」 (えびの史談史45号大牟田一成手記より」

2011年10月27日木曜日

終戦物語 私達はポーヅ頭になり顔を汚し

***************ここから**************

満州 長春 [現長春]にて   宮崎県   下牟田 シメ

私は昭和19年4月から満州電信電話局に入社して、3カ月の講習を終えて新京市[現長春]の神京電話局交換係として勤務しました。関口さんも一緒でした。20年8月9、10日頃ソ連機の爆撃がありました。ソ連軍が新京を占領してからは、物品の強奪、婦女子への暴行と危険な怖ろしい毎日でした。私達はボーヅ頭に成り、顔を汚したりして男の格好をし、びくびくした日々でした。

寮には門番の年配の方が、不審・危険な侵入者の時は非常ベルを鳴らすようにしていました。ある日二階で出会い頭のソ連兵に大声を上げて叫びました。ソ連兵は私の腕を引っ張り何かいつていました。後で知りましたが、ソ連の憲兵でソ連兵の見回りにきたのでした。心配ないと言ったのでしょうか、恐怖の一瞬でした。

暫くして治安がいくらかおさまつてから、寮の舎監そんの世話で、満人のキヤンデイーさんに、3人住み込みで働きました、夜は主人のぢいさんの部屋に休ませて私達を守ってくれました。舎監さんが仕入れたタバコを箱にいれ、箱に紐をとおして首にかけ、3人組んで街頭にでてタバコ売りもしました。

寮き食糧不足で、僅かなコーリヤンと味噌の食事でした。栄養失調と、極寒の寒さにたえられず、寮の仲間に死亡者がでました。病院はなく手当てもできず、寮の片隅に埋葬されました。今思うと胸が痛み冥福を祈っています。翌年の21年にはソ連軍と入れ変わった中国軍同士の間で、戦闘が新京の近くでありました。中国の重慶軍と八路軍の戦いだったとききました。寮には開拓団や子供連れの方などが言ってきました。

昭和21年8月。コロ島から、加治木、都城の先輩と貨物船に乗船し、博多港に引き揚げました。玄海灘などで機雷接触の恐れが有るとのことでね船の中では浮き袋を着用し、船を降りる時は頭から白い粉 ddt をかぶりました。故郷の土を踏んだのは8月22日でした。いざとなれば自決して異国の土に果てる覚悟をしていました。

身はたとえ満州野の野辺に果つるとも 操守りし大和撫子

****************ここまで*****************

引用元  「えびの市史談会えびの第45号」  【史談史第45号満州の終戦大牟田
一成手記抜粋】

2011年10月24日月曜日

終戦物語 冬期は猛吹雪

*****************ここから*************

千島     神奈川県  青木 伸静

北千島列島最北端カムチャツカ半島に隣接する小島、旧名占守島、北方派遣軍防空部隊所属、陸軍兵長【18歳 】冬期は猛吹雪、夏は殆どガスに覆われはれる日は少なく、全て樹木は強風のため地を這う。平時、冬期は無人島であった。

腹切らんと 思いし十八の夏ありき


千島列島「占守島国端    末松 達

独立臼砲大隊附高級軍医、千島海峡を連日荷物満載して通過する米船の数々が詔勅一週間前から全く停止、詔勅後4日ほどしてソ連囚人部隊来襲交戦したが、軍命令により停戦、武装解除、捕虜生活となる、。米船通過停止と北海の特有なうねり、国端海岸へ打ち寄せた激しい白波の凄ましさが一時的にしろ、静かになったのが無気味であつた。

夏の暁囚人兵が 襲い来て


****************ここまで************

引用元   「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二郎

2011年10月23日日曜日

終戦物語 零戦36機散華する

***************ここから**************

台湾    福島県   酒井  信

昭和18年より終戦そして復員まで、台南海軍空軍に転属、零戦の整備兵として勤務すす。沖縄戦には、比島より飛来する米軍機の連日の空襲、緒戦遊撃に発進せる36機の零戦は、数百機の敵グラマンと空中戦奮戦するも、衆寡敵せず、台南上空において勇壮なる散華をする。残るあらゆる機は、殆ど特校機として沖縄沖へと、近く終戦となる日も知らず飛び去ったのである。一昨年【昭和58年】台南空戦友会有志により台湾戦戦没慰霊団を結成し、戦没者への鎮魂への旅を実施した。

戦友【とも】の茶毘せし跡 失せて草茂る

台湾   長崎県  小林 誠美

私は昭和20年8月15日、台湾新竹市郊外の林の中で、米軍上陸に備えて陣地作りの穴堀りをしておりました。ぎらぎらと太陽が照り付ける暑い日でした。部隊長から昼に重大放送があるとの伝達があり、終戦をつげられました。ついに来るものがきたという感じて゛、全身から力が抜ける思いでした。町は既に中国の国旗を掲げているところ多く、異状な活気がみなぎっておのました。 陸軍兵長 ゜「無線通信」

竹の春 拳銃を片手に座り込む


***************ここまで************


引用元  「昭和万葉俳句前書集」   【高木 二朗発行】

2011年10月20日木曜日

終戦物語 清和開拓団の悲劇

*****************ここから続き**************

清和開拓団
満州の広野に情熱を傾け、村全体で分村計画を推進し、土地財産すべてを処分し家族を引きつれて途満、開墾に苦労を重ねてようやく前途に光明が見え始めた時、再び全てを放棄しなければならなかった開拓団の心境、残された老人や主人を終戦前の根こそぎ召集で応召された家族などの開拓団や義勇隊開拓団、訓練中の青少年義勇隊、報国農場奉仕隊など、ソ連の攻撃、満軍・土匪や現地住民の襲撃に防戦し逃れて山野をほうかいし、雨の中や飢餓と寒さに耐えての難行苦行の逃避行となった。
婦女子の待避移動の為に関東軍に助けを求めたが、2回とも拒否されて、婦女子を引きつれての避難は難しいと判断し、自決に追い込まれた開拓団もあつた。

敗戦

世界各国どんな国でも、軍隊はまず婦女子を保護するのが任務であり、その為に行動している。開拓団や民間人は日本軍に置き去りにされたので有る。
中村幸二郎氏【満拓理事、満州開拓研所長の任にあり戦後は引き揚開拓団民ともに北海道開拓に入植】は「満州開拓の反省」 【ああ満州】に、

今更ながら、いかに反省するも及ばぬことであるが当時の日本には、あの終戦前後の満州大撤収計画を指揮する智将も名参謀をも欠いていていたことである。物質↑
上の損耗は取り戻すことも可能であろうが、開拓事業のみは「人」がそのはじまりで有る。終戦処理に当たって特に開拓関係においては、いかに多くの人命が失われ
、又傷付けられたことか、その損耗をいくらでも低減するために、どれほどの組織と努力とかが払われたで有ろうか。

戦火に失われた損耗は、戦後引揚完了までに払われた「発疹チフス」「栄養失調」とによる人命の大損失であった。特に満州で生まれ満州で育てられた日本人の幼児の壊滅的損耗は現在の日本経済復興を目のあたり見るに当たって、いかに惜しみみてもなを余りあるものがある。

満州の防衛を放棄し、本土決戦一億玉砕ですべてを失うこともせず、只国体が護持されればよいという、自国の領土も国民の生命、財産の保護も二の次であった。
国が亡びるという国運をかけての戦いではなかつた。天皇制が脅かさられるといゆような危険はどこにもなかった戦争で敗北した

*****************ここまで****************

引用元   「えびの市史談会発行第45号」【史談史大牟田一成手記抜粋】

終戦物語 清和開拓団の悲劇

**************ここから**************

清和開拓団【新潟県第七次】全新潟混成の集団開拓団

昭和13年1月ー2月に東安省虎林県青和村に入植し依来順調に営農を進め、ソ侵攻時の在団者656人、応召者144人、合計810だったとされている 。8月9日ソ連侵攻の急報で、馬車を連ねて避難を開始。途中山岳地帯に入り、虎林県の完達嶺義勇開拓団【団員144人】で休息し、宝青街と満人の部落を通過する12日ー13日に満軍と土匪集団と満人の襲撃を受ける。  

後続は先頭から5時間遅れており、うしるの婦女子集団は特に死傷者を多くだした。開拓団は死者181名、同行の完達嶺義勇隊開拓団は150人中130名戦死した。
ようやく21日夕方に佐渡開拓団に到着する。28日の事件に遭遇し423人が死亡し、計604名を喪っとている。新潟県で最大の犠牲者をだした開拓団であった。中には一家9人で都満し、父母兄弟妹7人を亡くし、ただ一人悲惨な逃避行をして生還。後に復員してきた兄と只2人だけとなった女性もいた。

**************ここまで続く*************

引用元   「えびの市史談会史談史45号満州と長崎での終戦」
{大牟田一成手記抜粋」

2011年10月16日日曜日

終戦物語 本隊から孤立し

*********************ここから***********

蒙古  東京都   的場 武治

保定幹部候補生十三期「内地の予備仕官学校に相当」生、ソ連参戦によりきゅうきよ布定市をさり、八達嶺から蒙古の山中に入り、張家口から侵入するソ連軍遊撃の為谷あいに散開して陣地構築中、終戦となる。約40名「一区隊」本体から孤立し、状況の和からぬまま徹底抗戦、玉砕、自決、浮虜の覚悟あるいわ自重論など様々で、一日一日が深刻な対決を迫られていた。

音信「おと」絶えて方丈の土塁日章旗「はた」降す


******************************

アンダマン諸島     東京都     梅澤 和記男

印度洋アンダマン諸島のポートデレアにて、独立混成部隊の一員として終戦日を迎う、北支よりの
本隊【楓部隊 】は南支那海において敵潜水艦により撃沈され、全滅と聞く。

空に書く 妻子への文遠銀河

****************************

インドネシヤ・セラム島  群馬県  中澤 文次郎


濠北方方面参謀部通信調査隊隊員として、当時セラム島にありて、時に甘蔗作りなどせり、終戦前夜此の島玉砕との情報もいりて、我等死を決意せり、しかるにこの終戦報に接し、血涙とめどなし、往時既に茫々


椰子炎えて 涙の煮ゆる孤島かな

*****************ここまで************

引用元  「昭和万葉俳句前書集」   【高木 二朗発行】

2011年10月13日木曜日

終戦物語 通信筒が終戦を知らせた

***************ここから*************
フイリッピン-ルソン島   北海道 太田 信義

ルソン島山中にて、何日も続いた砲撃がピタリと止んで半月も過ぎた頃、日の丸鮮やかなトンボ飛行機からの通信筒が終戦を知らせてくれた。それまでの間、山中では乏しい食料を食い繋ぐが精いっぱい、湯飲茶碗一杯の米に雑草の若葉を混ぜて、日没を待ち、集めた古木でお粥にし、翌日の三食に充てる日が続いた。

灼熱下 マラリヤの友に経を読む


******************************

カンボジアにて     東京都  洗居 三男

空の先駆けたわむらと、共に誓い励まし合った仲間達が幽明を異にして、今日この日「終戦」を迎え様とは、灼熱の空せ血に染めて幾千の将兵が散華した激戦の「ビルマ」から、仏印プノンペン飛行場への転身を余儀なされ同地で終戦となる。元陸軍航空兵。

幾千の魂魄真白灼くる空
*************** ここまで***************

引用元    「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二朗発行】

2011年10月12日水曜日

終戦物語 ソ連 捕虜抑留者を自国の労働力として 国際法違反

Q*****************ここから**************

ソ連は第二次世界大戦で約3千万人の犠牲者わだした。スターリンは、戦後復興の為の労働力として
すでにドイツなどの敗戦国の捕虜を強制労働をさせていた。日本の捕虜 抑留者にも方針どおり強制労働を実施してのである。 ボツタム宣言は「日本の軍隊は武装解除されたあと各自の家庭に復帰し平和的且世生産的の生活を営む機会を与え羅れる」 とある。又捕虜の取り扱いについて「平和克服の後は、成るべく速やかに俯虜を其の本国に帰還せしむべし」と定めたハーク条約に違反し、明らかに国際法違反である。

**************************















満蒙開拓団の悲劇

終戦を知らずに戦い抵抗し、現地住民や土匪におそわれ、山野を彷徨うなかで多くの犠牲者を出した 

満州開拓民秘史の「事件別開拓団死亡者一欄」 を見て死亡別に纏めると。ソ連軍の攻撃・満軍の反乱と土匪の襲撃での戦死者は八開拓団の計1766人、戦死、自決者は三開拓団で計1317人、
自決者は六開拓団で計1491人、満軍による殺害は二開拓団で計182人の犠牲者を出して居る【本書関係のみの開拓団 】


佐渡開拓団跡事件 【東安省ポツリ県】 満州開拓民秘史に依ると

新潟県第10次佐渡開拓団が既に避難したあと、奥地からの開拓団が避難途中に、佐渡開拓団地に集結していた。東安省の一番東のソ連国境沿いの虎林県の清和開拓団【新潟県第七次】と完達嶺義勇隊開拓団、宝清県の埴科郷団、高社宕郷、更科郷、阿智郷、など長野県送出の開拓団が計八団、揚栄庄内などの山形県送出の開拓団が計5団、茨木県送出のの開拓団などその他の開拓団そして報国農業に入っていた青少年などで有ったという。

8月24日夕方ソ連軍偵察機一機が佐渡開拓団近くに不時着し、快諾団がソ連機を炎上させ、搭乗員を射殺したが何人かは逃がしてしまつた。26日ソ連軍が白旗を掲げ進んできた。ソ連兵は女性を連行するときはこうしていて、何回も被害に遭っていたので、開拓団側は女性を連れ出しに来たと判断し、機関銃を乱射してソ連兵20余人を殺害した。

激怒した連軍は28日早朝、迫撃砲等で約一時間に渡り開拓団地を砲撃し、残った生存者を建物の中に閉じこめ、手瑠弾を投げ込み火を放ち焼死させた。撃ち殺し焼き殺し徹底し殺害している。
埴科郷、高社郷、更科郷開拓団の殆どが全滅し、佐渡開拓団の地は焦土と化し、避難集結した開拓団の殉職者総数は1464人で有ったと記してある。終戦をしらず関東軍を信じての、開拓団のなかでも最大の犠牲者をだした事件である。て

**************ここまで**************

引用元  「えびの市史談会史談史えびの 【第45号えびの40記念号大牟田一成満蒙開拓団】
記事より抜粋

国の為 異国で国を信じ 、関東軍を頼りにした開拓団の悲劇は書くに忍びない現実に起きた事実
です、合掌。

2011年10月9日日曜日

終戦物語 直立不動で

*****************ここから**************

東京都にて  千葉県   杉浦 舟山

当時医薬品統制会社の人事係長として、空襲下の労務管理に苦労した。終戦当日は、日本橋の三共ビルに本社があったが、慶松左右衛門社長いか全員直立不動で天皇のお言葉にただ涙するのみであつた。

壕に寝て 焦土の夏を悲しめり

***************************

     東京都にて   千葉県   山崎 長夫

東京都千代田区東京逓信病院にて終戦をむかえた。当時、各地域ごとに、防護団が結成された、北支から野戦帰りしたばかりの私は、軍医でなく、歯科医であり、歩兵出身ということで、避難隊長に抜てきされ、独立防護団奈長故石原忍院長の下で、病棟裏の斜面の崖に、勤労奉仕の職員の方々と、最後の決戦に備えて防空壕を掘っていた。

明日ありと 耐えし戦友亡く蝉しぐれ


**************************

神奈川県三浦半島   東京都   藤井 弥十太

神奈川県三浦半島油壺湾内、海軍基地内、海軍水兵 【兵長】として基地内の取り締まり衛生兼公用便として、毎日横須賀鎮守府に書類持参、又、横須賀市及び三浦町の営内必需品の買い出し等が日課、他営内のみまわりも重要な任務でした。当地の海軍の装備は誠にお粗末そのもので、ボートの先端に爆薬を積み、敵舟に近づき舟もろともに体あたりという若い200名の志願兵と召集兵の集団でした。

いくさ人夢 やぶれたり灼けの原

*******************ここまで**************


引用元  「昭和万葉俳句前書集」    【高木 二朗発行】

2011年10月8日土曜日

終戦物語 竹槍で最後まで

*****************ここから**********

南部朝鮮    兵庫県   高  すず

当時女学校3年生。朝鮮慶尚南道馬山府在住。授業は短縮され、松根油採取、高射砲陣地構築
、軍服りボタン付け、魚雷部品作り等、動員学徒として働いておりました。当時の女子学生は最後まで戦う覚悟でした。

汗拭う者なし 玉音拝聴す


*****************************

南部朝鮮  奈良県  志岐 勝歳

大正14年生まれの初年兵「昭和19年12月入隊」。沖縄作戦に応じて、南京から昭和20年5月京城にいる。第四気象連隊本部の暗号兵である。8月8日、ソ連軍が、白城子から旧満州になだれこんだ暗号伝報も、やはり早朝に訳した、

昭和20年8月15日早朝も長文の漢字ばかりの暗号電報を訳して、敗戦を知る。時の暗号班長奥村中尉「慶応卒」の顔から、血の気が引くのお見た。12時のラジオ放送後の召集兵は本当に喜んでいた。私も生命をとりとめた事を喜んでいたと同時に、多数の兵隊の死を考え込んでいた。

召集兵 詔勅聴いて よろこべり

****************ここまで****************

引用元   「昭和万葉俳句前書集」   【高木 二朗発行】

2011年10月6日木曜日

終戦物語 敵の爆撃がピタリやむ

***************ここから*************

************************

南セレベス島     東京都    桐岡  博


セレベス島南部の山中、航空地区司令部の電報班に属しいいました。当日正午に玉音放送を聴き敗戦を知りました。其の夜の、第一線陣地から引き揚げてきた兵隊の、うつろなひとみを見たた時のやりきれない絶望的な気持ちが思い出されます。しかし、敵の爆撃のピタリと無くなった戦野の静かな夕焼けが印象に残っています。

戦記焼き 今なお悔やむ終戦日

***********************
ニユ-ギニヤ ソロモン地区   大阪府  駒井 正三

昭和20年8月一五日、西部ニュ-ギニヤ、ソロモン地区サラワチ島サマテの奥地で、現地自活で農耕作業をして現役四年兵の陸軍上等兵でした。20年十月頃にホ-ランジヤにオランダの捕虜として使役に従事、21年頃復員。

風鈴にサマテの亡友【とも】を偲びつつ
************************
サイパン島   茨木県  石浜 とみ子

サイパン島にアメリカ軍上陸依来、逃避行を続け、19年十月投降し、同島ススッペの邦人民間抑留所内のキャンプにて、米軍人向けの手工芸品を作っていた。

捕らわれ身に 一條の月あかり

**************ここまで************

2011年10月3日月曜日

終戦物語 新京一中生徒隊の終戦

****************ここから**************

昭和20年8月9日午前5時、国境守備隊司令部から、東寧農場本部に「****我が軍は国境各地でソ連軍と交戦中なり。農場隊員各隊はあらゆる事態に備えて準備すべし*****}とあり。6時以降に東寧県公社から「報国農場隊は、国境守備隊と連絡をとり、適宜の行動をとられたし、病弱者は東寧街民と共に避難させるから県公署まで護送それたし 」「学徒勤労隊員「新京一中三年生」の動員を解除するたただちにら県公舎に護送せよ  」の伝令通達が届く

【1】  報国農場隊。 東寧国境守備隊と報国農場隊の終極「北村 幸房氏編集」よれば
「農場では大規模農場経営の習特と食糧増産に希望を燃やしながら、日夜農耕に従事し、内地では得難い大型農業機械の操縦、百数十頭の家畜の飼育管理に若き力を全力灯球してきた。撒種作業から収穫期に入った矢先に、ソ連軍が侵攻してきた。

20年8月9日、伊藤倉吉隊長が引率した病弱者17名の移動待避以外の報国農場隊員は、国境守備隊員司令部内の陣地第785 
大隊の指揮下にいつた。ソ連機の機銃掃射と戦車砲ゃ自働小銃による攻撃を受け、又闇の中での肉薄戦などの中で、遂にばらばらになつてしまった、その後の逃避行と捕虜生活、難民帰還の途上などで確認できた者だけでも54名の犠牲者を出した、なを、いまだ10余名の行く目不明者がいる」とある     1号 終わり 2号 後編 次

*****************ここまで**************

引用元    「えびの市史談会市社会教育 【えびの第45号長崎と満州での終戦記 抜粋              大牟田一成著】

2011年10月2日日曜日

終戦物語 鉢巻きに毒を秘めて

***************ここから**********

北部満州  栃木県   荒井 菊江

旧満州国北安街にて、警視庁内菊水通信隊へ、電電会社より応援の為、電話交換手として勤務中、終戦となる。決死の鉢巻きに毒を秘めていた女子隊員もいたが、私達は最後の刻のため、町へ石けんと剃刀を買いにいった、帰り一兵より米を頂いたが、子供連れの方にあげてしまう。死を刻々と見つめ、友と水で髪を洗った。剃刀は守り刀として。

我もまた 明日の糧なし敗戦日

西部満州  宮崎県  細川 雅尊

元満州国空軍特別攻撃隊にて、来襲するb29を数度にわたり迎撃。しかるに、8月9日、不可侵条約を無視したソ軍の侵攻により、終戦の詔勅に万解の涙を呑む暇も無く、身は捕虜、妻子を戦野に曝すも、奇しくも生還を得た経験は、筆跡に尽くし難きものあり。

終戦の 空よ崩るる雲の峰


西部満州  兵庫県  天谷 輝久

終戦当日、私は15歳。満州開拓青年義勇隊員として、満州国北安省海倫県海北鎮街におりました。伝令が飛び、終戦をしりました。暑い日でした。暴徒と化した現地人は付近の開拓団を襲撃しました。終生忘れ得ません。

孤立せし 団攻めたてる土匪群

**************ここまで*************

引用元   「昭和万葉俳句前書集」   【高木 二朗発行 

2011年10月1日土曜日

終戦物語 米兵の歓声で終戦をしる

*****************ここから***************

沖縄県   沖縄県   大山 盛英

この日、沖縄では既に戦終わり、生き残った人々は食を求め、はぐれた親兄弟の安否をきづかいながら、米兵の救出食糧で生きる毎日でした。私も大学の学友を失い、虚無的な収容所生活を送っておりました。あの日は玉音放送もなく、米兵の歓声で終戦を知りました。

国敗れ 島は異人闊歩する


沖縄県   愛媛県  井上 泰蔵

沖縄本島北部の金武の収容所に、三度目の切り込みで受けた左大腿部と左前肘貫通創の身を養っていた。そして湧きき立つ望郷の念と其の又裏で、当時の風潮として俘虜の果てなるものに心おののいたことであった。

飯盒に 戦友の骨鳴り盆がくる


沖縄県  東京都  山口 米治  

沖縄の最南端摩文仁の丘に独立無線通信隊は、軍司令部附きとして洞窟の中で従事。最後の抵抗も空しく25万の戦死者を出し、6月25日無刻、牛島指令官と長参謀は自決。将兵は食に食無く飲み水無き暑い毎日を蘇鉄の葉陰で知る。

唐 をわかつ寸時も迫撃砲

****************ここまで**************

引用元   「昭和万葉俳句前書集」   【高木 二朗発行】

2011年9月29日木曜日

終戦物語 日本は本当に負けたのか

**************ここから***************

樺太  北海道    篠原 照子

終戦の御詔勅は、樺太豊原市の樺太師範学校の事務室でいただきました。「日本は本当に負けのか」と何度考えても嘘の様な気がしました。涙を拭かれた校長先生が「女子生徒を早く親元へ帰る様に」と先生方が指示されたので、私もきぅに母が恋しく、別れ住む母の心痛を思い、涙があふれたのを、昨日の事のように思い起こしております。23歳の生まれ月でした。


国負けて 俄かに恋し老い母

樺太  青森県  境  絹

夫は小学校教員であった。私達一家は当日を樺太上敷き香町において迎えた、ここは駐屯地で有ったが、終戦に先達将校の家族の家族等はいち早く内地へ引き揚げて、官舎は藻抜けの殻であつた。よく聴きとれぬ玉音に耳を澄ませた日より、州万の民は島上に孤立した。

身にぞ沁む 玉音をとこ泣きんをんをんな く


樺太  東京都  関口 波香

ソ連孫戦と同時に樺太真岡の魚港にソ連の軍艦が入港、艦砲射撃がはじまった、引揚船を待っていた私達はほとんど撃たれた、敗戦当時から無法なソ連兵と一部日本兵で三日間市街戦が続いた
。私も妹を背負い、弾を縫ってかろうじて裏山に逃れた。電話交嬢九人はこの時自殺した。

夏草や 乙女の死体 抱きけり

******************ここまで**************

引用元   「昭和万葉俳句前書集」   【高木 二朗発行】

2011年9月26日月曜日

終戦物語 嗚呼日赤看護婦班

ビルマ   宮城県   平  赤絵

昭和二十年四月二十二日、トング-「ビルマ」の町空襲爆撃を受け焼野原と化す。翌二十三日早朝、敵機甲部隊突入してついに退路たたるに、嗚呼日赤看護班、炎下死の町へ疾駆、これより山中を迂回する事一ケ月余、マラリア、アメ-バ赤痢に罹り倒れし者、疲労困 の果てに自決するものありーて合掌。八月十六日に至り日本は無条件降服せりと聞く。

おののきを隠す蚊 遺火焚きいたり


ビルマ   岩手県  小山田 花水

第二十四兵站病院はビルマ国において、インパール作戦に参加、後送患者の治療輸送に従軍、戦勢不利、北方より中部に転戦中、当日敵機飛来、ビラを撒く、土民これを部隊に届く、日本語で「日本軍降伏す」と記す。病院付軍医大尉。

終戦のビラは 日本語風死せり

ビルマ  宮城県  関根 龍火

一兵士として、仏印「ベトナム」にありて、連合軍の上陸に備え、陣地構築等に従事していたが、大本営発表と現地人の噂には大変な違いがあり、真相を知らず憂慮していたが、現地人の噂が正しく、終戦の報に愕然とした。 

終戦の報に 虚脱のゴム林


****************ここまで*************

引用元  「昭和万葉俳句前書集」  【高木 二朗発行】

2011年9月25日日曜日

終戦物語 日本に帰った喜び

***************ここから***************

関東州   大連市   岡山県 久保田 智子

大連で女学校四年の時終戦を迎え、ソ連兵、八路軍に脅かされ、三か月半天井裏で生活しました、二十二年二月引き揚げ、佐世保に上陸、日の丸を見て、日本に帰った喜びに泣きました。船では水葬に遭遇し、あの時の汽笛は今も耳にのこります。

如月の海に葬【はぶ 】りの汽笛鳴る


大連市   埼玉県 小林 律子

終戦当時大連市聖徳街に母と子「1歳」と3人でした、その後、九死に一生の夫を交え、引き揚げまでの生活をおくる。昭和二十二年引き揚げの番がきて、祖国の土を踏む。満人の暴動。ソ連兵の略奪怖ろしい日が続きました。

泣くことも 笑ひも忘れ敗戦日


シンガポール 埼玉県  斉藤 佐

星港「昭南」に転戦のため、ピリトン島マンゲル港に上陸し、八月十六日出港、。終戦の報に接したのは、マラッカ海上、銃の菊紋章を削り、弾薬を海に投下し、バンガ島ムントへ集結。第二十五軍司令部の一兵卒であった。

夏草に 彼の日戦忘れ得ず

*****************ここまで************

引用元  『昭和万葉俳句前書集」  【高木 二朗発行】

2011年9月23日金曜日

終戦物語 足蹴にされた所持品

*****************ここから**************

南支広東省    岡山県   沢坂 実男

終戦時、南支派遣軍第180平坦病院を広東市に開設し、戦傷病兵の診療看護に当たっていた「当時陸軍衛生大尉にて庶務主任」傷病兵を空襲より守る為、昼夜の別なく濠を掘っていた我々は、敗戦と聴き、悲しみと残念さにうちしがれ、じっと蟻をみっめていた。国旗を辱められないため、軍事機密書類と供に夕暮れをまって大珠河岸にて焼き捨てた、武装解除、私物検査、めぼしき物の押収により、足蹴にされた所持品を涙とともに集めた。

リラの道 足蹴の戒衣反転す

****************ここまで************

引用元    「昭和万葉俳句前書集」 【高木 二朗発行】

2011年9月22日木曜日

終戦物語 戦艦大和の撃沈される極秘ニースを知る

 

****************ここから**************

宮崎県    上谷川 敏

終戦。鹿児島県知覧特校基地  昭和19年1月鹿児島45連隊現役兵として入隊、隊は基地の警備の任につく。自分は暗号兵として訓練をうく。戦艦大和撃沈される極秘ニースを事前に知る、何か重苦しい雲漂う。八月15日広場に集まる我々に隊長より敗戦終戦の伝達あり、飛行場には計器をはずされた飛べない飛行機の残骸あるのみ、、飛び去りし特攻機の顔 顔 半信半疑、もとより決戦覚悟、一同悲嘆号泣、為すすべも無し。

数日後宮崎憲兵隊配属、臨時憲兵となる。市内神宮付近と思いますが、日本軍の武器回収が有り、戦車から大小様々、其の膨大な山と積まれた兵器に驚くばかり、其の警備に昼も夜も苦労した事が思い出されます。9月30日頃加久籐栗下に帰る事ができました。近所には大阪の部隊が多数おりました。後で枕崎に上陸した物凄い台風で、水漬りの大きな被害に遭い複旧に1年ぐらいかかりましたが、兵隊さんの手伝が大変たすかりました、過去ふりかえり今妻と無事平和に暮らす事のできる世の中に感謝しています。平成14年。その後 長く苦楽を供にすごされた奥様がお亡くなられました。ご冥福を心からお祈りいたします

引用元  「私の終戦』         (長谷 敏通著書)

2011年9月21日水曜日

終戦物語 青酸かりをわたされる

中部満州  ハルビン  東京都 北村 まさよ

旧満州国 ハルビン市 なんかん 奉天街17号。私達一家五人「主人ー市立病院医師 及び私と幼児三名」はいよいよ玉砕命令を前にして「8月13日ソ連との交戦始まる」 青酸カリを渡された。子供達を風呂に入れたりしていると、間もなく重大放送があるといふので、塹壕を築いた日本軍人達も私の家に入って放送を待っていた、8月15日正午、それまで雑音のみだったラジオから鮮やかにしかも玉音放送が流れて来た、「玉砕命令」とばかしと思って聴いていると

それは終戦の詔勅であった、「忍び難き忍び*******]  皆な泣いた。外地で敗戦国民となった一家の悲劇は其の日から始まった、街にはシベリヤ行き捕虜となる日本兵達が軍衣を焼いてみ去って行き、ソ連兵が暴行をほしいままにしてハルビンは死の街と化した。主人は死亡。翌夏母子四人引き揚げ。

街かどに ひと影絶えてせみしぐれ

2011年9月19日月曜日

終戦物語 密造酎

***************ここから****************

戦争でおらゆる工場が焼き尽され、着る物も日常品もなかったが、大人の大好きな焼酎もなかったのだろう。原料は唐芋だから作り方さえ知っておれば誰でも出来る訳で、密かにあちこちで作られていた。父も好きであったのでつくっていた。焼酎を作る機械、があった。一斗缶の大きさぐらいで丸い物だった、貸借をしており私も自伝車で大河平へ持っていかされた事もあった、

密造者があちこちで摘発されるようになった。私の家にも税務署の調査官が来た。色白で目の鋭い人だった、ツリン「井戸」の所に桶が置いてあった、あれは何につかうのかと聴いたら、飴を作ったところだと答えた、種々調と調べられたが証拠はなく。世間話になった。父が裏山の筍を掘って上げたら喜んで帰った。母が「来た時はおとろしか顔しちよったどん戻っときや仏さんの様な顔じゃったな」と云った。父は其の頃はもう造っていなかったかもしれない。


********************ここまで*****************

引用元   「えびの市史談会えびの33号」  (えびの33号 江藤 則男記事抜粋)


終戦当時の世相をそのまま書いておられます、記事の内容は何処でもあった事なのです、今では
考えもしない事ですが、密造酒造りと 闇米に間しては悲喜交々 終戦当時苦しい時代に過ごされた方にして理解していただく懐かしい語りです。

2011年9月18日日曜日

終戦物語 唐芋

****************ここから**************

唐芋が薩摩にいり飢饉を救つた話があるが、正に戦中、戦後の食料不足を助けた食べ物だった。御飯には小さく切って米半分、唐芋半分だった。学校から帰ると煮てあり、田畑仕事も唐芋だった、正月の餅を搗く時も最後には「カライモべった」を搗いた。私の家ではよく カシダゴをつくつた、コッパ
゜「木葉」切りで五ミリぐらいに切り、筵で干し粉にして団子を作り包丁で切ってたべた。沢山食べると胸やけがした。囲炉裏には誰がが焙っていた。焙つたのが一番おいとかつた。供出等でだした残りの小さなクズは大きな釜で飴を作った。お盆前頃唐芋の草取りに行き、地面が割れて居ると指で大きさを計り大きければ掘って、近くの溝で洗い、生で食べたりした。霜が降り蔓が枯れると唐芋堀の千切り方で手に汁が付き後で黒くなり洗っても簡単に落ちなかつた。今は年に二 三 個も食べない。只。焼酎に化けてみいるので教え等れない。


行商人と興業

農家の人々は町まで買物に行くのは少なく其の代り行商人がいろんな物を売りにきた、小間物、反物、衣類、魚干し物、アイスキャンデー等又桶の修理は一ー二週間どこかに泊まって修理していた。終戦後の頃枕崎辺の女の人達が数人で米と魚と物ぶつ交換した事もあつた。映画、浪曲、劇団等も回つてきた、映画は題名の下に三巻とか五巻と書いてあり多いとよろこんだ。早目に夕食を済ませ誘い合って見にいった。母が銅製で長さ12、3センチ巾2センチ厚さ67ミリで中は空洞で方方が塞がっていて金の鳥が彫刻しているのを畠で拾い持っていた。何だろうと時々人に見せていた、
女の懐剣の鞘ではなかろうかとゆう人もいた、或る時行商人に見せたら「鑑定する人に頼んでやる」と云い持って行った。それきりた゛つた

引用元    「えびの市史談会発行えびの第33号」  (えびの 江藤則男記事抜粋 )


*******************ここまで***************

パラオ島にて 敵に包囲され  岐阜県  永治 革洋

戦時中南洋群島パラオ島の山中の防空壕に隠れ住む。人の気配があれば砲弾で物の形がなくなる間で爆撃があった、突然、8月15日には朝から静かな時が過ぎ、谷川にでて食糧になるものを探したり、捕ったりしていた、ところが正午過ぎ偵察機からビラが撒かれた、拾って兵隊にみせ、半信半偽で敗戦を教えられた。 当時9歳

南洋に砲音尽きて終戦日


**************ここまで****************

引用元    「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)

2011年9月15日木曜日

終戦物語 基地の乙女が振る白いハンカチ

****************ここから**************
鹿児島県特攻基地  千葉県   内藤 秀夫

鹿児島県の特攻基地で飛行機の整備にあたる、九死に一生の生をも許さぬ若き特攻隊は重い爆弾を抱き、日の丸の鉢巻きをきりりと締め、目尻をつり上げ、顔を真赤にして空の一点を睨む。彼らは、基地の乙女が胸を震わせ涙を絶えて振る白いハンカチに送られ、次ぎ次と散って行った。そして8月15日終戦

行く雲に 何と伝えん今日の日を
****************************

鹿児島県山川町  大阪府  水流 保

国民学校二年生。8月12日昼過ぎ山川町成川。米軍焼夷弾にて農家13戸焼失、死傷者数人、母屋丸焼、祖母は孫二人し防空壕で布団をかぶり助かる3日たつた15日焼け落ちた木材がくすぶっていた。村役場が戦争は終わったと告げにくる。

村役の戦争終わり告げに来る

***************************

鹿児島県菱刈町  鹿児島市  有馬  愛

伊佐郡菱刈町前日にて敗戦を聴く。昭和20年3月中旬、次男は海軍兵学校入学の為、故郷山川町
出發、3月29日、米軍の山川港空襲によって、夫は戦災死。疎開先の前日にて、6人の子供を育て、生きる。

***************************

宮崎県      埼玉県   野別 忠孝

当時小学3年生。九州日向の片田舎に兄の戦死がもたされる。兄を戦場に送る時に振った日の丸の旗が鮮やかによみがえってきた。「しばらくは国旗を掲げる事もできないだろう」幼い胸がそう叫んでいた。もう優しかった兄はかえらない。暫くして母に連れられて行った野原に炸裂した跡があり、
その真新しい土の裂け目に一本の野すみれがなぜか季節はずれに咲いていた。小さい胸に悲しみが突き上げて来た。

草野裂く 爆弾跡湖に 夏すみれ

****************ここまで****************

引用元   「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)


終戦前後の各地の悲しい出来事がありのまま伝えられております、其のひと言に苦しみに絶えながら多くの人達がたえしのんで来ました、其の事を書き込む私も胸が詰まりそうです、真実を伝え戦争に対して憎しみと平和のありがたさを感謝しましょう

2011年9月13日火曜日

終戦物語 終戦を空から知る

*****************ここから****************

ハルマヘラ島     兵庫県 今井 忠夫


当時南方ハルマヘラ島にいた。私達は前戦の補給基地の司令部要員として、同島に昭和18年着任したが、戦況不利となり、20年には混成旅団に編成替え、私は副官をしていたが、終戦を空から敵機にしらされ、血の気が引く思いがした。

ジャングルに 非常呼集や終戦日 


スマトラ島      広島県  吉岡美俊

スマトラ島、海軍通信隊の通信兵下士官として、対敵通信傍受。職務柄、終戦「敗戦」はおぼろげながら予感できた、しかし、詔勅をいただいた時は呆然自失、瞬時滂沱たるものがあった。落ち着いて自分を取り戻し、生きのこった我々の使命感を考えるようになったのは数日後だった

あかり消え トッケイの声 澄みにけり


比島マウンテン州  岡山県 池川福市

比島マウンテン州イフガヤ郡キヤンガン北部山岳地帯「標高15メートル前後」現地召集の輸送隊「軍人」。後句日終戦が遅れていたならば、全く生還は出来なかったと思う、それほど食料は不足していた。イゴロット族の居住する山岳地帯で、僅かな平地を開いて、甘藷を作って細ほそと生活していた、そこえ多くの日本人が入ってきたのだから、見る間に食べる物は底をついて、毎日甘藷探しに苦労した。まるでダイャモンドを掘り当てるような状況であった。人々は次々と戦死。病死で倒れていつた。毎日爆撃があった。

終戦と 言うのに 又墓穴掘る


****************ここまで**************

引用元   「昭和万葉俳句前書集」   (高木 二朗発行)

2011年9月11日日曜日

終戦物語 少年少女達の終戦

***************ここから***************
満州「満州国・中国の東北部」には、昭和20(1945)年8月当時、日本の民間人は一般、開拓団含めておよそ155万が住み、うち農業開拓係者(満州開拓団、満州少年義勇軍、報国農場隊、勤労奉仕隊) などの総人数は約27万人であり,一般の128万が南満州鉄道「満鉄」、満州拓殖公社「満拓」、満州国政府の関係者ゃ商工業従事者などの人達であった・

敗戦による一般の死者は9万6、000人、開拓関係者の死者は約8万人で、一般、開拓団併せて17万6,000人であつた、開拓団員、家族の死亡率は30%近く、約3人に1人が死亡し、開拓団の犠牲者は全体の50%近くを占めている、関東軍70万の死亡率は9%、一般民間人は7,5%であった。
*************************

ソ連軍の参戦 
ソ連 日ソ中立条約の不延長の通告と宣戦布告

昭和16「1941」年4月13日、松岡洋右外相はモスクワで日ソ中立条約に調印。昭和20年「1945」4月5日、ソ連は日ソ中立条約を延長しないと伝え、未だ日ソ中立の期限内にかかわらず、同年8月8日午後6時、ソ連のモロトフ外相は佐藤尚武駐ソ大使に対して、に日本へ宣戦布告を通告した。宣戦布告は日本に打電されたが、其の電文は届かなかったと言われる。

*************ここまで*************

引用元 「えびの市史談会第45号創立40周年記念号」(記事抜粋大牟田一成著)

2011年9月9日金曜日

終戦物語 村の婦女子は山奥に

***************ここか*************
高知      上本 正夫

安芸兵団の召集兵としてね高知県太平洋岸の前浜村に、迫撃砲要員200名と共に穴居し、米軍の上陸作戦に備え、玉砕戦闘体制中に八月15日を詔勅により迎えう。陛下のお声は雑音にて不明,一億玉砕の至上のみことのりとし拝し兵等等しくまなじりを決する、午後一時近く、無電にて終戦を知るその後の混乱は、安芸15005部隊長命令が下る間で続く


村の婦女子は山奥ににげろ ー、部隊の血気にはやる一団は、抗戦して全滅しょうー、軍旗は焼くな、様々のみにくい情報がみだれとび、続出する自決者に釈然とする。夜に入り、迫撃砲を大平洋に向けて発射する。40発

砲放ち 狂うねがう 敗戦日  



兵庫県     大阪府   橋本 和子

兵庫県  揖保郡龍野町、兵庫県立龍野高等女学校、3年生の教室を工場にして、各自の机に万力を取り付け、ヤスリ持つ手を豆だらけにして、銃剣づくりに汗みどろでした。鍔を付ければ仕上げといぅ日に敗戦を迎えました。終戦当日12時講堂に集合した学徒は、玉音放送にて敗戦を知らされました、

工場指導員の方が、目を真赤に泣きはらし、ぼろぼろ涙を流し、出来あがらんとした銃剣を一人一人に下げ渡し、進駐軍が上陸してきてはずかし  めを受ける前に、自分で作った剣で相果て、操を守るようにいわれました。極度の緊張が脳裏を走り、悲壮な決意で下校した20年8月15日を昨日のようにはっきり覚えております。此の日を最後に出征した2人の兄は、南方方面ということだけで、いつどこで戦死したかわからないまま、現在に至っております

操守れと 汗の銃剣渡される


****************ここまで**************

引用元    「昭和万葉俳句前書集」    (高木 二朗発行 )


思っていなかった終戦最後まで、神国の勝利を信じていたのですが、時代は変わりましたが60数年前の出来ごとです、多くの人達が終戦後苦しみに耐えながら祖国の復興に尽くされた人達に感謝を忘れず語り継ぎたいと思います。

2011年9月8日木曜日

終戦物語 障子や畳まで持ちさられ

**************ここから**************

大阪府     富樫 紀始子

私は奉天の姉の婚家に同居していました、「関西の灘にあった家が戦災に遭遇し」。当日城内に住む満人の娘が結婚するので介添人になることを頼まれて、打ち合わせに出けました・城内で洋車でおりた時、ちょうど何処からか大声でラジオの雑音が多い異様な音声を耳にして、立ち止まり聞きました。初めて聴く天皇のお声でしたが、敗戦だと直感、近くまで来ていたのですが、乗って来た洋車に再び乗って日本人街にかえってきました。訪問予定の家に違約の詫びの電話をかけましたが、もう知れ渡っていて、日本人から電話がかかると迷惑するので、もう駆けないでくれと言われました。

先発のソ連兵が入って来て女を見ると、ダバイし始めました。夜にいると、満人の暴動があり、軍隊が其の日まで守っていた衣料、食料を我かちに老人、子供までが持ち去り、無人や女子供だけの家も狙われ障子、や畳まで持ち去られ、骨組、壁だけがのこりました。

夜に入り 暴動蜂起す 敗戦日



群馬県      松島 康子

忘れられない終戦日、主人現地応召、奉天小西区、関東軍指定皮革工場の我が家は、一瞬に谷間に落ちた、一児を抱き、日本人の妻たる信条を胸に、故国の土を踏む日をまった。

背の子へ 夏の広野の童唄

*************ここまで**************

引用元   「昭和万葉俳句前書集」    (高木 二朗発行 )

2011年9月7日水曜日

戦争中の米をつくる仕事家でたへる
米さえ供出して、戦争の為協力しました。




終戦物語 恨みに報いるに

*************ここから************

中支江蘇省    兵庫県   本多 欽一

ソ連の参戦により上海から満州へ転進途中、北上寸前に南京で終戦となる。蒋総統の「恨みにむくいるに恨みを以てせず」の寛大な計らいもあり、武装の自主解除。収容所の自力管理など、秩序ある終戦処理がでた外地戦線であった。 感謝・

出番なく 炎天に焼く乱数表






高知県    沢村 良高

当時私は上海郊外浦東の野戦病院の軍医見習士官として勤務していた、病棟は粗末な平屋立てで
。別棟には建物の管理人である中国人である老夫婦が住んでいた、彼等は我われを「先生(シーサ
ン)と呼ンだ、ある日の夕方、爆竹が方ほうでなり、その老人が「私達と日本人とは友達になった」となった言って来た、空には銀河が流れていた、複雑な気持出あった、其の翌日、病院長から終戦のことをしらされた。


爆竹の悲し 銀漢 また悲し

東京都    菊池 留雄

五、 六日前から中支鉄道の爆破が、全く発生しなくなった、さて不思議なこともあるものだと、心ひそかに懸念していた、8月15日に落雷のように、上海鉄道司令部へ敗戦のし知らせが飛びこんできた
。上海は灼けつく様な真夏の昼下がりであった。陸軍大尉として感知したことは、支那民衆の姿は、平常と変わりなく、朝鮮民衆のみがいやに、凱歌を鼓舞しているかの様であった。

ああ千鈞のおもさ 水が灼けてくる

2011年9月6日火曜日

終戦物語 軍歌 

**************ここから**************
同期の桜           
1   貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く


咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため


2   貴様と俺とは同期の桜    同じ兵学校の庭に咲く


血肉分けたる仲ではないが なぜか気が合ぅて別れられぬ

3   貴様と俺とは同期の桜    同じ航空隊の庭に咲く

仰ぐ夕焼け南の空に     未だ帰らぬ一番機

4   貴様と俺とは同期の桜    離れ離れに散ろうとも

花の都の靖国神社      春の梢に咲いて合おう

引用元****「西条八十原作」    (大村能作曲)


暁に祈る


嗚呼あの顔で あの声で 手柄頼むと妻や子が 
ちぎれる程に 振った旗  遠い雲間に未だ浮かぶ

ああ堂々の 輸送船    さらば祖国ょ栄えあれ
遙かに拝む宮城の     空に誓った此の決意

ああ傷ついた此の馬と   呑まず食わずの日も三日
捧げた生命これまでと   月の光で走り書き


引用元***** 「野村俊夫作詞」   (古関裕思作曲)

******************ここまで***************

2011年9月3日土曜日

終戦物語 高射砲中隊  空襲

************ここから************

宮崎県   「故人」    木崎原 操

この25師団の対空部隊として小林市の南方ひなもり台に高射砲中隊が陣をかまえていた、このような中に在って、昭和20年8月10日、突然米軍のグラマン戦闘機3機が吉都線沿いを都城方面から低空で飛んで来て各駅に機関銃を浴びせた。駅付近にいた人達は、星のマークを付けた戦闘機が機関銃を発射してきたのでビックリして物陰や溝や藪の中に逃げ込んだ。しかし此の空襲で各駅は相当の損害をうけた。

私は8月10日に配給物の傘の材料を受け取るため、時自転車で小林市に出かけていた、小林市街に着くと当時にタンタンと大きな音がした「省略》私も急いで堤傘屋の防空濠に避難させてもらった。用事を済ませて防空濠を出ようとしたところ、こんどは続けて西の方から戦闘機に護衛それた爆撃機の大編隊《約30機」が通過して行った。この時、ビラを上空から撒いたので中学生が拾っていた
。尋ねたところ、小林市も降服しないと徹底的に爆撃する。と書いてあった」

この様に第25師団が転用になっていからは、西諸県郡地方もあわただしくなった。吉都線を走る混合列車の最後部には、無蓋歌貨車を連結し、そこに草木でカムフラージュした92式重機関銃を設置して空襲に備えていた。其の貨車には数人の兵士が乗り込んでいて、敵機が飛来してくればたちまち撃ち落とす態勢を整えていた。8月10日に爆撃機の編隊30機が飛来してきた時、小林市の人達は此の編隊に向かって高射砲隊が射撃するだろうと今か今かとまっていすたが、とうとう射撃しなかったので残念かっていたょうである。是は、この時点で射撃すると小林地区に集結された軍需物資が敵の空襲によって破壊され、小林の街も焼け野原になるということで、師団長命令があるまで禁止されていたということである。尚、此の空襲による被害は次の通りであった。

西小林駅  死者  10人 負傷者 18人  小林駅 会社タンク損害
飯野駅   死者   1人  重傷者 1人   馬死亡1頭
加久藤駅  中学生     重傷者  1人  高原 沿線死者 2人
高崎新田  種駒       1頭   死亡  京町  機関車損害2台



****************ここまで*************


引用元  《えびの市史談会第29号》   《発行人えびの市史談会」 

2011年9月2日金曜日

終戦物語  銃後の守り

**************ここから**************
宮崎県        (故人)       木崎原 操 

昭和12年7月勃発した支那事変は、全面的な対中国戦争へったまま同16年12月8日のハワイ、比島、マレー等の一斉攻撃で大東亜戦争へと突入した。しかしながら、戦局は一時日本軍に有利に進展てたもの、逐次、米軍の物量作戦に押され日に日に険悪な状態に陥っ行った。今回、その大東亜戦争の思い出として終戦間近の昭和19年-20年にかけての郷土における防衛や留守宅の様子を書いてみました。

昭和20年2月、軍部はここに至って、本土決戦の備えを厳重に固めるため、西部軍司令部と第6航空軍「福岡市平尾駐在」に西日本一帯の防衛作戦の任務を与えた。このため、鹿児島県知覧にいた第6航空隊の第41航空隊の松山中佐の指揮する飛行場建設部隊は、昭和19年12月飯野宇畑に特攻基地を建設するために、宮崎県飯野町に移駐し、本部を飯野小学校講堂「旧飯野公民館」においた、此の部隊は吉松から小林の茶屋平付近まで民家に宿泊しながら、同年12月中から飯野町字畑の丘陵地に特攻基地「滑走路の長さ1,200メ-トル  幅60メ-トルの建設を秘密裏に開始した


当時の建設機械はそれほどない時代であつたが、此の作業には機械力としてのブルドーザでグアム島の戦いで捕獲した敵のブルドーザを相模原造兵廠で模造したものが6台、ローラ転圧車8台、キヤリオールの自働削土車4が投入された。又、人力も突貫工事のため多くの人手を要するため、軍隊以外に当時の国民学校高等科生徒「現在の中学生」達や西諸県郡内の各く部落から多くの民間人がが奉仕隊として協力し。モッコゃスコツプ等による作業に静をだした。遠方から来ていた人々は食糧を持参し泊まりがけで決まった日を勤めて作業に当たっていた。此の特攻基地は昭和20年8月の終戦直前に完成して試験飛行がおこなわれたが、本格的運用はないまま終戦となった。「小林競馬跡の特攻基地も当時期に完成している」 

****************つづく*****************
引用元***「えびの第29号」(えびの市史談会発行)

飛行場作りに皆様参加された苦労話は影が薄く成りつつありますが、今語り告がないと夢物語りになってしまいます、銃後の言葉さえ消え去れ様です、もし戦に慣れはもう゛前も後ろない怖ろしい時代になりました、平和えの願い強くすべき時です。

2011年9月1日木曜日

終戦物語  一発の銃声

***************ここから**************
仏印西貢(サイゴン)   東久留米市  五百川 勇

補助軍曹として終戦の詔勅を聴く。戦記を焼き、ほのかな慕情を通わせた安南の娘との別れ,夜ふけて己の身の始末。ヒストルを前にして近くに一發の銃声。戦友某の最後か。

アヲザイ娘 背負いて 泣くや木下闇


ベトナム       茨木県       桧山  芳 

当日現 ベトナムのダナン市郊外にある飛行場の片隅で、通信兵として軍務に服していた。正午にいたり、玉音を傍受せる兵あわただしく入り来り、終戦を告ぐ。一同唖然自失そのなすべき所知らず

敗戦の軍靴が 重し蟻の道


ブ-ゲンビル島にて   神奈川県  山崎 三郎


昭和20年8月15日、私は海軍設営隊員「海軍上技曹」として、ソロモン諸島ブーゲンビル島において、栄養失調症ながら、敵「米濠軍、約20キロ地点」と決戦対峙していた時、終戦になりました。それまでに隊員が934名、飢えとマラニア等で戦没死 しました。

密林にビラが撒かれる 平和の夏


****************ここまで**************

引用元  「昭和万葉俳句前集」    (高木 二朗発行 )


*****************
プ-ゲンビル島での戦いは 武器 食量の補給がなくなり、日本軍は苦しい戦いをされたときかされ
ました、なくなられた多くの方のご冥福をお祈りいたします、私の義兄も機関銃隊の隊長として負傷せし身を返り見ず突撃隊に参加、アメリカ軍の艦砲射撃にジヤングルが禿山に変わり果てたと帰還された戦友が最後の戦の様子を話されたと聞いております、将来を有望された義兄は戦死、陸軍大尉、靖国神社に祭られております。

2011年8月30日火曜日

宮崎県 宮崎日 日新聞窓欄に投稿

**************ここから**************
パソコン使い戦争を伝える

昭和20年、満州新京(現長春)満鉄社員輸送業務に励む。7月現地で入隊、北満州国境部隊配属かなたはソ連の山だと古兵が語る。9日ごろソ連軍突如侵入、其の重装備に抗する手段もなく我が中隊は後方に転進。10日後に山中で終戦をしる。現地で中隊は解散する。

5人して逃亡中ソ連兵に包囲され、銃撃、最悪の捕虜となり、3年の抑留のはじまりであった。異国に眠る多くの友への思いを胸に残し23年舞鶴上陸。鹿児島の戦友の安否を役場に連絡すると、戦死との返信で戦争の残酷を悲し憎しみ胸がつまる。

孫も離れ 友人も多く亡くなっていき、昔話も消え行く今日。終戦前後の様々な出来事を若い人達につたえたく、少し覚えたパソコンで内地、外地で国の保護をなくした日本人の苦しみを体力の続く限り伝えたいと思います。世が変わり今ではえびの市に長春より多くの学生が留学して、日本の大学受験に勉学に励んでおります。素晴らしいことです。また、孫がぢいちゃんみてるとのメ-ルが楽しみです。

宮崎県 えびの市      長 谷 敏 通 投稿  86歳 平成23年 8月27日宮崎日日新聞

2011年8月29日月曜日

終戦物語  敵中突入を決して、

*****************ここから**************

東部満州     愛知県   木屋 孝正

旧満州の老国山、羅子溝方面において、対ソ聯との戦闘に参加したが、停戦となり、敗戦による武装解除を受ける、満ソ国境に近い所、部隊は全滅に近い。僅かの経理班員は、敵中突入をけっして、手りゅう弾を手に立ち上がった、折しも停戦命令がきた。行動を中止して雑木の丘にのぼる。そこ軍旗の奉旗ありと知らされ、全員挙手のうち点火わなす。嗚呼。

手りゅう弾 もつ掌むなしもいくさ止む














****************************


東部満州     大分県   富田 晋



昭和20年5月、ソ聯の参戦に備え、満ソ国境の東寧に召集され、毎日毎日が陣地構築に重労働の連続でした、小銃は3人に一つ、帯剣と手瑠弾だけの装備、いかにも敗戦末期の症状でした。8月9日ソ連の参戦で、ソ連軍が戦車を戦闘に怒濤の如き勢いで国境を突破して進攻してきました、今日で私の命は終わるのかと思うと、両親、兄弟のことが思い出されて泣いてしまいました。


終戦に もろ手をあげる初年兵


**************ここまで*************

引用元 ****゜「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)


国境 老国山 部隊に7月現地人召集で私 輸送業務関係者にも最後の現地入隊、お二人
の記事の内容に衝いては私も同じ体験です、 国境の日本軍が重装備のソ連軍に身をすて
国の守りの為戦った事を残したい思いす。

2011年8月27日土曜日

)終戦物語  ルソン島東海岸

*************** ここから*************
.ルソン島にて    茨城県   新井 関乃助 

ルソン島東海岸をほう徨していた。至る所に日本兵の死体が転がっていた   。
軍服を着たまま白骨化している腐りかかった死体には、宿借りが群がって
いた。明日は我が身、俊寛僧都さながら海草を、宿借りを求めてさまよって
いた。

友の腐肉 食うやどかりをくらいけり
*******************************

比島呂宋島山嶽州アシン谷に在り  東京都 木下 和信

尚武軍司令部は比島呂島山嶽州アシン谷に在り。地獄谷といわる。軍指令
官山下泰文大将、最後の策を講じつつありき。私は参謀附少尉。その日、
日直将校。夜9時頃か、松明を掲ぐ特情、伊藤、吉岡大尉,暗闇を衝き大
詔の報告に来る。

最後の策 大詔に止む山下兵団

******************************

ラバウルで孤立   愛知県  寺西 金一

孤立したラバウルの海軍253空零戦隊の基地に、いつか再び精鋭の飛行を信じ
て、薯作りに励む上等整備兵曹の惨めな勇姿。敗れし朝、星のマークの敵機が
乱舞する。とっておきの新しい褌を締めて、あの詔勅を聴く嗚呼。

敗れし夜 サザンクロスのうるみいし

*****************ここまで***********

引用元 ***「昭和万葉俳句前書集」  (高木 二朗発行)


終戦66年 過ぎし今 書き込む私も胸が痛みます、勝利を最後まで信じ祖国
の為、遠く離れた島島で思いもしない終戦、。戦争で亡くなられた方のご冥福
を祈り、戦争のむなしさを語り継ぐ思いです。 (合掌)

2011年8月26日金曜日

終戦物語 故郷に帰れ

*************ここから***********

鹿児島県鹿屋    香川県   豊田 健三

甲飛予科練習生として鹿屋基地の横穴壕で起居していました。終戦もしらされず、敵の爆撃
の目をくらますための模造の飛行機の場所替えなど、作業ばかりしていました。8月20日
過ぎ夜半起こされ、故郷に帰れとの事でした・

炎天下 拾い手捨てぬ敵のビラ

鹿児島県 伊作町   福岡県  鹿児島 泰蔵

8月15日早朝、薩摩半島伊作町と谷山町を結ぶ国道の峠の杉林の中にある野営地を出發
して、池田湖畔の軍弾薬集積所に向かった時の「弾薬受領」という武者震にもにた緊張感は
私終戦の聖勅と共にひとたまりもなく崩れ、放心にた気持で帰途をいそぐ

何で負けたか、やはり物量戦に惨敗だ。悔しさが込み上げてくる。最初の応召で中支、北支
を駆け回った記憶がよみがえる。二度目の応召は原隊で、そして今度の三度目の応召に*
*********。ささやかな私一人の軍歴が泡の様に消えさつた。これからの日本はとうなるも
のか。故郷の年老いた両親をどう守ってゆけばよいのか。そして自分は・

終戦日 消えし手牒の兵事歴


鹿児島県桜島   香川県  豊嶋 俊夫


鹿児島県桜島、海軍の第五特攻戦隊司令部「水上特攻隊」で、南九州の海岸防衛に従事。
米軍の宮崎、鹿児島への進行が迫っており、皆必死必殺を期しながらも、好み身が玉と
る散る時と 所を模索していた。

生くべきか 死ずべきか立つか雲の峰

*******ここまで*************

引用元****「昭和万葉俳句前書集  (高木 二朗)



2011年8月23日火曜日

終戦物語  爆撃機150機の集中爆撃をうく

************* ここから************

愛知県      阿垣 映子

愛知県豊川市にありました豊川海軍工廠は敷地坪総坪数594.400坪・最盛期の工
員数約6万人、海軍兵器生産東洋一の大偉容を誇っておりました、昭和20年8月日
午前10時30分、b29 爆撃機約150機の集中爆撃を受け、死者2,477人負傷者1万余人といぅ犠牲者をだしました。私わ、豊川海軍共済病院看護婦養成所第三期生。当時15歳でした、

防空壕の中で此の弾でも生きていた、又生きていたね、と友達同士手を握り締めておりました、一瞬母に、家族に会いたい、母の顔を瞼に焼き付けて、死を覚悟しておりました、防空壕を出た途端、一面黒煙が上がり、負傷者がゴロゴロしております。負傷者を担送しているのに執拗に艦載機が追撃してきます、木陰に隠れながら走りました、救護所は各所に設置されました。民家の座敷もみるみるうちに負傷者で阿鼻叫喚の修羅場と化しました、遺体は松原に、見渡す限り置き去りにされておりました。

艦載機 木陰に隠れ 担送す

***********ここまで********

引用元***「昭和万葉俳句前集」   (高木 二朗)


2011年8月22日月曜日

終戦物語  青天白日旗が広がる。

***********ここから**********
 香港  愛知県   小山 歌三郎 「南 史」

陸軍、暁部隊召集下士官、在香港、8月15日朝、家ごとに青天白日旗がひるがえる
2時、副官より終戦の大勅下りし事、3時、前言取り消し、支那派遣軍百万健在の達し、
翌日の新聞、日本降服の大活字。

流れ星 妻子に 生きて還えらねば



香港  東京都   田中 義勇 「竹 影 」

香港方面海軍特別根拠地隊として、該地区の警備に当たり、日夜訓練に励んでいた。戦況は日び不りな状きようになり、玉砕を覚悟、ひしひしと緊迫の度を深めいた降り、玉音放送を聴き、緊張した前身が一度に崩れ落ちていつた。

号泣の 部下を諭す吾も 灼けゐたり

*******ここまで************

2011年8月21日日曜日

終戦物語  シンガポール市街は

*************ここから************
 シンガポール    神奈川県  加部 言治

終戦時、私は、スマトラより昭南島防衛隊の暗号士として在島していた。暗号通訳は無電が主体であり、暗号士は一般の者の知らない軍事秘密を全部しつていた。玉音放送により日本の敗戦を一番早くしったが、一般の将兵は敵の謀略であると憤激して耳もかさなかつた。シンガポ-ルは、占領より終戦日まで一発の銃声もきかぬ平和な日が続いていたからであり

兵に配られた新聞ゃ情報は、すべて勝った勝ったの報道ばかりであったからだ。ところ
が現地人は情報ヲキャツチするのが早く、一夜にして日本の敗戦を知り。中国人街、
インド人街、馬来人街、インドネシャ人街のすべてが、自分達の居住区域を自ら守ることと、独立に向かって一斉に蜂起し、シンガポ-ル市街は混乱の坩堝と化して、騒然として地安は無秩序の状態に陥った。

弾残る 肩疼き来る 終戦日

************ ここまで*************

引用元 ***「昭和万葉俳句前集」   (高木 二朗 )


一夜にしてすべてが変わる、しかも命も 終戦でなく敗戦なのです、平和な街のよぅすが分かる様です、前戦で戦っていた人達のその後の苦労はいかばかりで遭ったことでしよう、過ぎった戦争での苦しみは忘れる事なく、平和の望みをいつまでも強く持ちつづける事と思います。

2011年8月20日土曜日

終戦物語 踊り狂う兵隊

************ ここから************

パラオ島       東京都  直井 正武 

南洋群島パラオ島に有り。飢餓戦線をさまよう目に映ったのは、島を見張はって
いる敵艦 艦上で、赤、黄、青、など原色の鮮やかなシャツを着てダンスをする敵
兵の姿だった。後で知ったことだが、これは日本の降伏を知り、踊り狂う兵隊だつ
たらしい。

艦上に 色シャツ動く 敗れしなり


ボナベ島゜「現在のミクロネシヤ連邦』  鳥取県 宮地 和子

カロリン諸島 ボナペ島のジャングルの中で終戦を迎えました、ラジオ等はありま
せんので数日後になって知りました、島民に日本が負けたと聞かされた時はデマ
でないかとさえ思いました。クエゼリン島ゃサイパン島等が玉砕し、ボナベ島でも
玉砕を覚悟で、上陸する敵兵を待っていました。

玉砕は あすかもしれぬ 島の夏

*******ここまで*******

引用元  **『昭和万葉俳句前集」   (高木 二朗)

2011年8月17日水曜日

終戦物語  もう日本語は通じない

**************ここから************

南部朝鮮    大分県    財前 義一 「一笑」

8月14日、北鮮威興刑務所から大田刑務所に出張する。15日朝、京城駅着、街も平静である、大田駅着、歩く事30分、灼熱の照り付ける太陽、正午を時計は少し回っている。ここ大田刑務所で聞く敗戦の知らせ、今日まで大切に守ってきた官職、今、古靴のよぅに捨てる。其の歓声、夕闇も迫っている。北鮮への最終列車の中、もう日本語は通じない。

独立の 万歳に酔う京城の街

******ここまで********

引用元  (昭和万葉俳句前書集)     「高木 二朗著」


思ってもいなかった敗戦、多くの人がそれぞれの立場で特に外地では一日ですべてのものが逆転したのです、考えもしてない事が現実に起きたのです。国の保護をうしなった日本人が一夜にして明日の命さえ分からない現実、66年前の終戦の出来ごと
です、日本語は通じない 其の言葉の意味に込められた敗戦の思いは胸中を刺される思いです。

2011年8月15日月曜日

終戦物語 子供時代の思い出 ノンとシタメ

*************ここから*****************
宮崎県    江藤 則夫様

人の血を吸って生きる物に蚤と虱がいた。ノンは赤茶色か飴色で光沢があり胡麻よりも小さく二三センチは軽くとんだ。肌着にいて逃げるが速く、「のみ一匹若い女を裸にし」とかという川柳も有り、指に唾を付けて素早く抑え無いと次に飛んで行った、畳で繁殖するともいわれ、臼庭にも沢山いて、足にとびついてぞろぞろと上がって来るものだったノンの多い家少ない家があつて「何処何処の家がノンが多かがなー」と言ったりした夏にいた。

シタメには髪の毛にいる黒いのと肌着にいる白い衣虱がいた。男はみな丸坊主だったのでいなかったが、女の子の髪に沢いた、母親が捕ってくれたり姉妹で取り合ったりした。頭をあらはない人に多い様で親の注意や生活程度とも関係が有るようにみえた。ビンダレ「木製洗面器」に湯を入れ上半身で髪を洗うのをよくみかけた。頭の自肌か髪の毛にしがみ付いており、爪でしごき取り緑の板の上等で親指で潰すのだった。

蚤 虱は満州から兵隊が持ってきたともいわれていた、冬の寒い時季に肌着の縫い目におり、体のあらゆるところ刺すと言うか吸い付いて血を吸うのであつた、肌には赤い吸口が沢山でき、痒いので常に体を動かし「シタメ踊り」という新語も生まれた。繁殖が早くシャツ等の縫目に何十匹もいて両手の爪で潰すと爪は真赤になるものだった。又シタメも白いのに血を吸って腹が赤くなっていた。又縫目には何百個もの白く光る卵を生み付けていた。とても捕りきれないので母は下着は全部風呂にいれて煮る物だった。それでも何日かすると湧く用に繁殖してシタメ踊りをさせられるのだった
。米軍がddt殺虫剤を持ってきて絶滅したようだった。
後 終戦前後のそのままのお話を続けさせて頂きます
*************ここまで続く*****************

引用元 *** えびの市 「史談史より抜粋」   (江藤 則夫著)

2011年8月13日土曜日

終戦物語 是まで生死をかけた苦労はなんだったか


************* ここか*************

台湾にて    平松 正五郎

終戦時は、鹿屋海軍航空隊大鷲部隊残留班と言っても、鹿児島県鹿屋でなく、台湾台北市郊外の松山飛行場「陸軍管理にて周辺は陸軍部隊が固めていた」に飛行場待機員として勤務

15日の放送は敗色濃いものの、ソ蓮参戦に依る激励の勅語とおもいが、終戦の詔勅にて、是までの生死をかけた苦労は何だったのかと、講堂に安置してあった白木の箱の前で、友と号泣したことが昨日の如く偲ばれる。

三日前 終戦なれば 友逝かず

***********ここまで***************

引用元       (昭和万葉俳句前書集    「高木 二朗著」

2011年8月12日金曜日

新京も奉天も風前の灯になつた。

**************ここから*************


福岡県      成松 欽嗣様

その日重大放送が有るとのことで、講堂に集められた。雑音ひどく、よく聞き取れなかったが、日本が降伏したとすぐ分かった。8月9日にソ蓮軍が突然満州になだれ込んで新京も奉天も風前の灯になった。8月13日に召集され、やっと14日にこ奉天市鉄西区にある国民学校に集結した私は、戦況から判断してすでに決死の覚悟が出来ていただけに敗戦がどうしても信じ等れなかった

やがて配属された部隊では、酔っぱらった見習士官が軍刀を振り片っぱしからひまわり切り倒していた。近くにあった日本人民家では、幼い子供を抱えた若い奥さんが
ちいさい紙袋を造って灰を詰めている。暴漢に襲われた時の目つぶしにするのだといぅ。そんな人達が取りすがるのを振り払って、やがて部隊は北へ移動し、そのままソ蓮の奥深く連行されたのである。18歳になったばかりだった

音絶えて うす気味悪し夏の午後

************ここまで***************

惨めな敗戦残された 婦女子達の心構え 至るところで起きた敗戦の悲劇 僅か18歳の胸中はいかばかしであった事でしょう、私も当時20歳 北満州の山の中を新京目指して当てもなくさまよっていました。無惨にも異国で非業の最期を遂げなれた多くの人の御冥福をお祈りいたします・【合掌】

2011年8月10日水曜日

終戦物語 虜囚 短歌

*************ここから************

札幌市  塚本 光雄様

故郷に帰らむおもい一筋に耐えきし戦友よ凍土冷たし

方五尺余す墓所の冷え冷えと野辺り送り柩小さし

凍寒のきはみ小川も水涸れ生活の氷運びぬ

従容と戦友と廬囚の責うけし豊原の野を馬齢薯の花咲く

凍寒に小鳥も凍へ死ぬというこの山奥は笹さえ生えず

***************************************

熊本県   田上 千尋様 

夕刻早や街にソ軍は入りにけりごごたる戦車の響き

左右前後に敵砲弾は破裂す吾も撃ち返す曲射砲弾

血刀わ下げて壕に入りきたる白兵戦の一軍曹ありぬ

決別の杯交わす壕の中宿命なるか終戦の報

戦野に散る戦友「とも」の屍を埋葬す詣でる人無き草むす墓辺「合掌」

***************ここまで 続*************

引用元***「シベリヤ抑留体験記」  「城田 敬助」

2011年8月9日火曜日

終戦物語 軍馬も食を求めて

****************ここから***********

南部満州    兵庫県  森本 艶子様

終戦日、旧満州国錦州市向陽街、合成燃料株式会社社宅内軍借上官舎2号に在住‥亡夫「元軍人」は8月9日、ソ蓮参戦と同時に隊に行ったまま終戦を迎える、7歳と4歳と1歳の子供と私、陛下のお言葉は、はっきり聴きとれませんでしたが、周囲の様子の刻々のうっり変わりにより敗戦を知る都同時に、外地での私達の生活は、一分先は闇でした。音もなく崩れる思いがしました、正午頃から陸軍官舎が襲われ、開拓団の方々「殆ど婦女子」が着のみ着のまま、追われるように逃げて来られました、皆で雑居、たちまち病人が出来死亡する人もふえ大変でした、飼い主の敗戦により、 
軍馬も食を求め歩き、痩せ衰え、トボトボと肩を落として、当てもなく行く姿、今思うと
胸が痛みます。

板切れの 墓標たちまち丘暑き


南部満州    香川県   池添 静雄様 

終戦わ迎えたのは石炭露天掘で有名な満州国撫順駅。身分は関東軍668部隊の初年兵。その日の午後郊外同胞農家が暴徒に襲われているのを救出に赴き、戦争に敗れた悔しさ、惨めさをつくづく感じ、夜は貨車の中で一睡も出来なかったことを記憶している。

国破れ 夜の歩哨に虫すだく

************ここまで***************

(引用元) 「昭和万葉俳句前書集」   [高木二朗]

2011年8月8日月曜日

終戦物語 中国の兵隊に幾度も

***************ここから***************

南部満州   東京   深沢 宏子様


満州国 撫順市の市公社に住んでいました、夫が満州国の官吏で撫順市の防衛参事官でした、私は20年7月に長女を出産しました。敗戦後は中国の兵隊に幾度も家に押し入れられ、又ソ蓮の兵隊も女を出せと押し入ってきて怖ろしい目に遭いました。

乱れにし 心は盆の母のもと


南部満州    大阪府   井上 操乎様


奉天市、8月15日は会社命令で営口へ疎開す、長女3歳、長男11月、不自由な生活の中で長男病得、重体となる。終戦の報伝わるや、すぐ満人は暴虐をきわめ、殺人、暴行多発、生きて心地せず、8月末帰宅、3日後長男死亡、主人は戦地から未だ帰らず、当時24歳。

灼くる風に 大君の声とぎれがち


南部満州    兵庫県    生尾 さだみ様

8月15日には、満州国本渓湖市に住んでいました、当時私は、新京特別市の女子師道大学の学生で、夏休の為自宅に帰省していました。将来は満州国の女子教育に身を捧げたいと決心していたところです、祖国が破れ、原住民の反乱、若かった父の死と、強烈な過去は、未だに拭い切れないのです。

大西日 つぶてとなりていくさ果つ


************ここまで**********

引用元**「昭和万葉俳句前書集』 (高木二朗発行  )


敗戦の事実は外地の日本人には住む家も無く命の危険に毎日おびえて暮らす日々
で遭った事を皆様書いておられます、事なかばで多くの命が無惨にも奪われた史実を忘れる事無く、肝に銘じておくべきと思います、私『長谷」も青春時代 新京で5年間
過ごし『20年 7月現地入隊 北満州にて抑留3年 23年舞鶴上陸」想いはつきない
新京特別市です、今えびの市には『長春」前の新京から日本の大学受験のため1年間勉学に励んでおります、まじめな学生ですほとんどの学生が大学に進学しております。新京か懐かしく留学生と楽しく交流しております。世の中が 変わりこんな縁がある事の不思議を感し゜ております。

*****************此の話是まで*****************

2011年8月6日土曜日

終戦物語 女達は髪を切り

**************ここから**************

南部満州    千葉県  角川 千枝子様

無蓋車に乗せられて新京「現・長春」を避難。通遠  まで来て敗戦をしりました。置き去れの病兵哀れ。兵の毛の帽子と見たのは虱がとりっいてのです、女達は髪を切り男装していました。当時主婦、24歳。

高梁の 葉ずれの中に葬りし

*************ここまで************





***************ここから**************


南満州    東京都  月岡 チト 様

新京より朝鮮へ疎開の為南下中の無蓋車の中で終戦を迎えた、13日の夕方から無蓋車にすし詰めになった、新京人の南下が始まる、15日玉音放送が終わると、
すぐ気車は原の中で止まる「本渓辺」 満人の略奪に遭いソ蓮機の機銃掃射でバタバタ倒れる、新京へ帰る食物も捕られ、畠の茄子で家族6人の命をつなぐ。

一滴の水なき 夏の逃避行

**************ここまで**************

2011年8月3日水曜日

終戦物語 特殊潜水艇 3人乗り 艦長19歳

***************ここから***********

宮崎県    東 清秋様

佐世保の海軍に志願兵として入隊、呉大竹潜水学校入校、19年特殊潜水艇科配属小豆島 坂部にて訓練をうく 試運転に立ち会い 四国 宿毛にて待機 命令を待つ  


命令に依り特殊潜航艇3人乗り 艦長19歳 操縦科卒 現役太平洋を潜行、苦難筆跡につくしがたし。ハワイの大軍団を見て転身の余儀となる。艇器具故障、万難を乗り越え青森大湊に入港8月16日初めて終戦を聞く、海軍の迎えの飛行艇で呉に帰る、小豆島で艇を自沈、書類を焼く、

復員の途中広島を見る、徳山駅は無くなっていた。次の乗り場まで歩いて行く、下関から門司へ行く、台風で大変な被害の様だった。支給された物資は全部無くなり、其の時の毛布と日の丸は今も持っている、私の分身を見る思いがする、長くて短い世の流を感ずる歳になった
*******************ここまで*************

引用元******* 「私の終戦」    (長谷敏通著)

2011年8月2日火曜日

終戦物語 青酸カリをポケットに

************* ここから***************

大阪市     大岩 美智子様

敗戦当日は岡山県赤穂郡瀬戸町瀬戸、県立瀬戸高等女学校にいた。上級生は水島に動員。校舎の半分を呉海軍工廠分工場として使用。私達学年は、学内にあいて双眼鏡の生産に従事、当日だれが持ち出したかのか、青酸カリを各々ポケットにしのばせ、アメリカ兵の来る前にと死を覚悟したのを記憶している。


夏草や 覚悟の薬にぎりしめ



*************ここから*************

富山県     川島 勇次様


20年6月、軍艦「利根」に乗り組を命ぜられ、海軍経理学校より呉軍港江田内で乗艦した、当時「利根」は、多くの戦績にもかかわらず、燃料がなく、張り子の虎となって海軍兵学校生徒の乗艦を持つ呉練習隊に編入していた。7月24日と28日の両日にわたり、米英機動部隊の艦載機と大型爆撃機のべ千機が、在港艦船を攻撃した。

「利根」は、伊勢 日向  大淀と共に終日、防空砲台として応戦し、多数の戦死者を出してその命脈を断ったのである。「利根」は左に21度傾斜し、江田内沿岸に大破したので、残務を処理するため、江田島佐伯小学校に移り、終戦を迎えた。 
軍艦利根庶務事務室先伍下士  海軍上等主計兵曹

古鷹の 雲の峰へと紅蓮炎

****************ここまで**************

引用元**「昭和万葉俳句前集」」      「高木二朗様」

終戦前 いかに米英の物量の大きさに今となれば、驚くばかしです、その攻撃に立ち向かった人達の気持を思い亡くなられて多くの人達にご冥福を祈り、感謝の気持を持ち続ける事を誓います。

2011年7月31日日曜日

終戦物語 長崎と満州での終戦物語 続き

*************** ここから*************
 宮崎県   大牟田 一成様
原子爆弾 威力     長崎の原子爆弾の爆発により放出されたエネレギ-は、熱線35%/ ・放射線15%・ 爆風50% と推定されている。長崎の原爆の放出された熱線は爆心地から一、二キロメートル以内は人体には致命的となり、

重傷者は表皮は焼けただれてはがれ落ち、皮下の骨まで露出するほどであつた。爆心地から約4キロ離れた地点でも。、野外の人は重傷を負った。又熱線は大規模な火災を起こした。爆風は爆心地から一キロ以内の一般家屋を破壊し、強烈な爆風は人や動物まで吹き飛きとばし殺傷した、。放射線を1キロ以内で被爆して無傷であった人てもその後多くが死亡した。また被爆直後から嘔吐。下痢。発熱。皮下出血などの症状が重なり、一週間たつた頃から死亡者が増加した。 

九死に一生をえて幸いに生きのこった人に、放射線は今もなお人体に影響を与えつっ゛けていて、白血症や悪性腫瘍など様々な症状を引き起こしている。「原爆被爆災記録写真より」

宮崎県では、昭和35「1960」年に宮崎県原爆被害者会が発足した。昭和45「1970」年には「閃光は今もなお」を編集、鉱脈社から発行。昭和62「1987」年に「続・閃光は今もなを」 を編集平成2「1990」年に宮崎県原爆被害者の会延岡支部は「熱い**水をくれ」を編集発行、平成8「1996」に同日南支部は「閃光のかなた」を編集発行。被爆の思いをつなぐ会は「遺言、宮崎のヒロシマ・ナガサキ」編集、鉱脈社から発行。同8年には西諸六九会は「原子爆弾 被爆体験記集」を編集発行、県原爆被害者の会は、戦後65年悲惨な被爆体験を風化させないように、次世代へとつたえていかなければとの被爆者の願い思いから、是まで出版された記録に新たな証言・記録を集めて「ヒロシマ・ナガサキ 宮崎から証言」 「県内146人の65年間にわたる証言集」 として今年平成22年に鉱脈社から発行した。


引用元***「えびの第45号」   (えびの市史談会発行)

************未だ続きます****************

放射線の被害の怖ろしい事は、今 福島にての事故 東北の人達の思いもしない、放射の被害に言葉も有りません、一日も早く元の生活が出来る事を祈るばかしです

2011年7月29日金曜日

終戦物語 足に銃弾を受け松葉杖でかえってきた

************ ここから*************

現住所で終戦迎える、夫は中国での戦闘で地で足に銃弾を受け松葉杖でかえって来
た.覚悟はしていたが慣れない農作業に大変だつたが、御国のためとがんばった。

明石仁絵門様から其の頃では大変貴重な自伝車をいたただき、夫の足となり何より
も有難い事だった、三世帯同じ屋根の下で暮らした。其の頃の苦労は今の生活にもおおいに為に成っています、戦争は負けるとは思いもしなかった。
夫はその後役場に勤め、傷痍軍人としてその他おおくの役職を無事勤めさせて
だき老後を過ごさせていただきました。 私 終戦当時 25歳でした

************ここまで**************



引用元[私の終戦]  (長谷敏通発行)

2011年7月26日火曜日

終戦物語 私は気が遠くなり

**********ここか***************

佐賀県    高橋 八依様

花冷えの暗い駅で、夫は長女をちぎれる程に抱いていました。私達は黙って列車の窓を叩き合って別れました。蛙の鳴き止まぬ夜、夫の訃報、夫は大阪・生野区の消防署員で、6月に殉死しました。私は佐賀県佐賀郡諸富町上下佐賀線筑後鉄橋の見える実家におりました。爆音の最中、老産婆とあわて来る母は、赤子の啼声に仰天、私は気が遠くなり***その子も短い生涯でした。

夏衣の夫 走り寄り来ぬ夢枕


熊本県   松本 一枝様

私は、熊本県鹿本郡六郷小学校勤務、当時沖縄から学童疎開が、学校の裁縫教室に住む。当日険しい八方ケ岳に砲台を備える為、学校に一泊した兵隊に、いも弁当をてっだう。見送った後、すぐ終戦の玉音を賜る。那覇の学童悲喜交々に咽び泣く。

終戦や 悲喜交々の那覇の子等

************ここまで************

引用元  【昭和万葉俳句前書集 】  「高木二朗」

終戦物語 ソ連より引きあ

説明を追加
****************************

いまぞ帰る ・ソ連管理下の大連からの

引揚船 1船「辰日丸」は21年12月8日   

佐世保に入港 奥地からの避難者が多く
 

 
着のみまま 哀れな姿がめだった。

****************************

引用元 「1億人の昭和史」

2011年7月25日月曜日

終戦物語 苦難を背負って

  • *************************************


終戦物語 外地より引き揚

推定57万5000人のソ連
抑留者はシベリヤへおくられた。21年12月 米 ソ協定で始まった引き揚は25年4月、戦犯などを残し中絶、28年11月赤十字協定で再開し、31年10月の日ソ共同宣言により、戦犯も全員釈放となった、、ナホトカから舞鶴へのソ連帰還者45万3849人

韓国からの引き揚婦人には、国際結婚に破れた人も多かった、25年6月28日〔会福丸」で門司に帰って来た婦人は 服装もイタについていた。

**********************************************

引用元〝〟【1億人の昭和史 】

私も23年6月27日 信濃丸で舞鶴港に復員しました 長谷

終戦物語 長崎と満州での終戦 続き

************ここから************

宮崎県     大牟田 一成様

宮崎県都城で小林中学校【現小林高校】学生が昭和20年5月8日午前7時20分、都城の川崎航空機製作所の工場に動員中、爆撃によって3年生10人の若い命が奪われた。加久藤小学校で一緒だった松原区の川野利光君、私の母方の親戚の西小林の山下四郎君も犠牲者の一人であつた

終戦直前の8月10日午前9時頃、勤労奉仕作業地に向かって西小林小学校を出発した児童・生徒達が、西小林駅近くにさしかかった時、都城方面から吉都線そいに飛来したグラマン3機の機銃掃射によって、小学生8名と小林高女「現小林高校」3年生2名計10名が犠牲となり、18人が負傷を負った、7歳から15歳の少女の命が失われている。

小学生8名の中の2人は疎開中の沖縄出身者であり、小林高女3,年生の白川清子【真幸出身で当時は父君が西小林小学校校長の為西小林に在住】と 中村政子さん【大島出身で西小林に疎開中】の2名は、小学生と同じ作業地の為引率補助として手伝っていた。【当時小林高女3年生は在住校区での勤労奉仕作業であった】。

続いて飯野駅で死亡者1名・負傷者1名、加久藤小学校生徒負傷者2名の犠牲者がでている。民間人への無差別攻撃であつた
此の項はこれで又続きを

**************あとがあります*************

引用元  「えびの史談会 えびの45号」「えびの史談会発行」

2011年7月24日日曜日

終戦物語 乳がでないので子は唯細るばかり

************* ここから*************

山口県   磯部 道子様

当日、北九州市小倉、空襲で即死した友の墓前でした。虫のしらせか19年の末、乳のみ子を抱き親子3人帰国【満州奉天より】。夫は即出征、兄も出征中、病身の父は頼りにならず。満州より送った荷物は届く筈もなし、文字どおり着のみ着のまま、口に入れる物が無く、乳が出ないので子はただ細るばかり、地を這いずるな毎日でした。

一合の山羊乳に 並ぶ炎天下


******************************]

埼玉県  末松  優様

昭和20年8月15日、猛暑快晴、九州佐賀県唐津市郊外の有浦村の山にかこまれた農村。玉音も跡切れ勝ち。海軍設営800名の特攻基地づくり兵一同襟を正して整然と拝聴。米軍上陸の噂たちまち広がり、村民蚊帳と鍋釜を持って山へ逃げる。海軍529設営主計長 海軍主計小尉

山間の蚊帳のテントに炊く煙り

************ここまで*************

引用元  「昭和万葉俳句前書集」

終戦 前後はいろんなデマが飛びかい 其のあわてぶりがうかがい知る事が分かります、嘘のようなほんとの話です。

2011年7月22日金曜日

帰還した御遺体を茶毘にふされました 嗚呼 声なし

佐世保郊外で茶毘に伏された 並べられた多くの遺体、涙無くして見られません。

終戦物語 無言の帰国と

****************************************** 


引き揚げは 生還者だけでははなかつた 戦没者あるいわ引揚げ途上で死亡下者もすくなくなかった 其の[゜未火葬」・遺骨もかえってきた、激戦地だったマニラから 戦没遺体が遺族に還されることになった。24年1月9日 佐世保へ帰港した 「ボコダ丸」の一般人を含む遺体は佐世保郊外 ・野天火葬場で茶毘に賦された火葬後 遺体は氏名不詳者を除き 家族に引き渡された 海外戦没者の本格的な遺骨収集は28年から始まり 現在もなおおこなはれている

******************************************
引用元【一億人の昭和史】

2011年7月21日木曜日

終戦 物語 満州 吉林にて応召

**************ここから************
青森県   松山 清一様

旧満州吉林国立師道大学勤務中、突然応召。北満州孫呉15202部隊重機関銃隊に入隊、厳しい訓練を受け、ソ満国境興安嶺の山深く入り、戦車壕を掘る作業中
、突如ソ連が参戦し、毎日機銃掃射を受け、多数の犠牲者が出る。停戦ついに捕虜となる。


白旗や 兵 月に悲喜の顔  「兵はつわも}

**********ここまで*************

引用元 ;  「昭和万葉俳句前書集」 【高木二朗発行】

終戦物語 防空壕で暮らす人達

地方に避難したくても親族・知人無い人達は 都市に留まる寄り方法が無く 防空壕に焼けトタンで雨 露をしのいだ。
[日時 不明]
*************[一億人の昭和史]寄り******************

2011年7月20日水曜日

終戦物語 台湾にて

*********** ここから***********
東京都  渋沢 均様

昭和18年、第1回学徒動員応召、比島から転戦して、台湾の基隆要塞司令部の見習士官として、終戦を迎えた。日盛りの衛庭に流れる詔勅のラジオは、あたかも万里の波濤を越えたる如き雑音を伴って胸にせまった。20歳の夏であった。

灼くる 身を軍帽深く 町にでる


東京都  真芝 真文様

昭和20年8月15日台湾台中市草屯飛行場に展開中。我が飛行第58戦隊も南方および中国大陸等歴戦に継ぐ歴戦にて犠牲多く、ついに三個中隊が二個中隊の戦力となり、南方飛行団台湾集結後、沖縄総攻撃の「神翔特攻隊」として戦隊全機特攻訓練の明け暮れ。数日を経ずして玉砕の身だった。感無量、嗚呼。

夏空に御わします戦友吾と咽け

************** ここまで*************

引用元 ;  「昭和万葉俳句前書集」  [高木二朗発行]

東京への爆弾

銀座4丁目、三越付近に爆撃が集中、数奇屋敷へと避難する親子、後方ビルは服部の時計台、中央列柱のヒルは昼夜銀行「昭和1月27日
写真提供  「一億人の昭和史」
********************************************

2011年7月19日火曜日

終戦物語 パラオ島より 帰国

*************ここから************
 兵庫県   谷川 和子様

20年8月15日、兵庫県赤穂市の実家に住む、婦女子引き揚げにて、サイパン玉砕寸前パラオ島より「長女6歳」とともに帰国。8月15日の放送を聴く、しかし陛下のお声は聞き取りにくく、現地召集の夫の身を案じ、落ち着かぬ日びであった、なを、19年5月五頃パラオ出航当夜魚雷を受ける。

狙わるる 深夜飛び込む夏の海


大阪府  八田 文枝様

終戦の放送を、奈良県生駒郡孔舎衛村の農家の一部屋で聴いた、私は破れたモンペの膝を正、そばに姑が中風で休んでいた。結婚してすぐ出征し行方しれず、家は全焼して農家に住まわせてもらい、其の手伝いをしていた。今までは勝ためとすぺてを我慢し続けてきた。明日からの生活を考え、姑を抱えて涙よりも強く生きようと決心した。

病む姑の 汗をふきつつわれ涙

************ここまで***********
引用元゛「昭和万葉俳句前集」 「高木二朗発行」

戦争で夫が戦に召され、残された妻の苦労がいかほどであった事か、私の母も
父が応召して父の田舎にかえり慣れない農家の手伝いに追われていました、歳をとった今そのころの母を思い、母の苦労を思い胸が痛む思いです。「長谷」

****************************************

終戦物語 空襲

やっと持ち出したフトンとわずかな家財、雨、露をしのぐ場所もなくなった。焼け出された朝、七輪の煙が目にしみる
20年5月11日 。「一億人の昭和史」より抜粋

2011年7月18日月曜日

長崎と満州での終戦

*************ここから***************

宮崎県  大牟田 一成様

{終戦から65年。}今年は第二次世界大戦「15年戦争・太平洋戦争」の終戦から65年になる。今年8月は、広島、長崎の夏原爆記念日や終戦の日中心にして、テレビ、や新聞、雑誌などは戦争のもたらした悲惨な事実を、多方面から追求し、報道し、戦争の罪悪と平和の大切さを訴えていた、原子爆弾は、多数の罪無き民間人の命を奪っている、一発の爆弾は壊滅的な打撃をあたえた。

広島では被爆なら65年の「原爆の日」の6日に「原爆死没者慰霊式並びに平和記念式」があり、文国連事務総長、原爆を投下したアメリカ、 核保有国のイギリス、フランス、ロシアなど過去最多の74カ国代表が参加している。9日被爆の長崎市
「長崎原爆犠牲者慰霊平和記念式典」に「核のない世界」に向かって協議が進んでいる事がを印象づけた。しかし「核兵器禁止・核のない世界」への歩寄りは、核開発国・核保有国など各国の立場の違いから停滞している。

広島では今年一年で5501人の死亡が確認され、死亡者の累計は26万9446人という。又今年3月までの被爆者手帳を持つ人は22万7565人、前年比では8004人の減になり、長崎では、今年一年で3114人の死亡が確認され、死亡者の累計は15万2276人と発表された


***********引用元 「えびの市史談会発行45号)前文」*********
また秋葉広島市長は、平和宣言で「こがあな いびせえ」 「こんな怖ろしい」こたあ ほかの誰にもあつちやいれん」と被爆者の声を広島の方言で紹介され、核廃滅の 
ためには「被害者の本願「を世界に伝える事だと訴えられたと報道された。
*****************続きます宜しく**************

2011年7月17日日曜日

20年511日市の東部と武庫郡 御影町・住吉村・本庄村「現東灘区」の空襲では、焼夷弾・爆弾の雨を降らせ 木造家は倒壊した。 持てるだけの物を持ち避難する人。
「1億人の昭和史」より抜粋

***********************************

まだ死臭と瓦礫の有様てけした

長崎県 後藤 なせ様

昭和20年8月15日は、鳥取県三保海軍基地に、主人 葉

終戦物語 大勢のアノリカが来て私達を取り囲みました。

*********** ** 
            
     

宮崎県  七帖祐七様 当時16歳

終戦は福岡県田川郡、職場で陛下の放送を聞く16歳であつた,良く聞き取れずとぎれがちの声だったが、戦争は負けた何でだと腹がたつた。ほしがりません勝つまではと、耐え抜いた気持ちが空しくなった。寮も動揺が広がり無断で帰郷する様になりました。私は兄が近くにいたのでたよつて避難しました。食べ物が無くて何時も空腹だった事がきつかつた。良く仲間と畠荒らしで持ってきたカボチヤに塩を振りかけたべていました。

ある日兄貴の家に大勢のアメリカ兵が来て私達を取り囲みました、あの時は怖ろしく生きた心地はしませんでした。アメリカ兵は家の後ろが蜜柑山でしたので蜜柑を分けてくれとの様でした。兄は自分の山で無いまだ小さいと手ぶり話ましたが、通じる分けはありませんでした。後日仕事先から賃金が送られて来ました。当時としては多額であつたので父が喜んでくれた事がおもいだされます。

***********************
街で拝聴しょうと思っていたので街にでた-----人々粛然と頭をさげ 一瞬 街は静かな事***玉音は心に染み渡り ゜「抜粋一億人の昭和史」より
引用元ー「私の終戦」 「長谷敏通著」

2011年7月16日土曜日

終戦物語 紙の爆弾

紙の爆弾、宣伝ビラは伝単し呼ばれ、こりを拾ったら、すぐ警察へ届けなければならなかった、20年216日、関東、東海に投下されたのがさいしよで、終戦の8月15日までに計453万4000枚
に達した

************引用元ー「一億人の昭和史」、*************

20年5月11日 市の東部と武庫郡御影町、住吉村、本庄村 「現東灘区」の空襲では、焼夷弾、爆弾の雨を降らせ 木造家屋は爆風で倒壊し持てるたけの物を持ち避難する人。

**********ここから***************


長崎県  後藤 なせ様

昭和20年8月15日は、鳥取県三保海軍基地に、主人は海軍小尉として勤務、私は長男、長女と基地近くに住む、8月9日故郷長崎に原爆が投下され、母、姉、従兄、叔父、叔母、8名犠牲となる、基地は幸いに余り動揺なく、皆帰郷の準備、帰崎は終戦一ケ月日の まだ死臭と瓦礫の有様でした。

水欲りて 阿鼻叫喚の夏を逝き

*********ここまで**********

引用元ー「昭和万葉俳句前書集」「高木二朗発行」

長崎では23、753人が死亡、行方不明 1927人、重軽傷 40933人の散状となりました、放射線の権威、永井隆博士もその一人だった、博士は
「長崎の鐘」などおおくの手記、記録を残し、原爆の恐怖を後生に伝えられました。

「一億火との昭和史」より 抜粋   「編集者 長谷敏通」
************************************

2011年7月15日金曜日

終戦物語 終戦無は其の翌日であった

**********ここから**********
大阪市  宗元 宗春様
  
「又負けたか 大阪八連隊」と野次られ、後に「22連隊」と改名された軍隊に、未だ18歳の私が学生の身のまま臨時召集に狩り出された。終戦は其の翌日であった

怖ろしき 原爆に似し入道雲


兵庫県   高井 シヅ様

母と私は、兵庫県高砂市米田町の田舎にいた、それに、7月3日の大空襲で父祖の地姫路で全焼させられて、命からがら逃れて来た。そこで毎日毎日「疎開者」といぅ不当な圧力と苦しみに、日々疲れ果てていた、戦況も、中小都市も焼き尽くした米軍は、こんな田舎まで狙い初め、疎開している家の屋根を覆った老楠の枝をかすめて機銃掃射、「いよいよ戦争も最後」との思いが肌に感じる日々だった

すべて焼かれ 我に生命あり八・一五

**********ここまで*************

引用元 「昭和万葉俳句前集」    [ 高木二朗発行   」

空襲は私達田舎の村まで8月10日クラマン機が作業に出る子供の列に銃撃をうけて10人の子供達が亡くなりした大惨事がありました。
引用元゛「私の終戦」 「長谷敏通」

2011年7月14日木曜日

終戦物語 私の目から初めて、涙が溢れ落ちた

**************ここから**********
神奈川県  内田 正夫様

銀河隊、米子基地は編成中で、愛機6機、迷彩され翼を休めていた。玉音放送のあった午後、私は夏草に座り放心していた。パンパンと拳銃が鳴り、整備兵がタイヤを打ち抜いていた。私の目から初めて、涙が溢れ落ちた。

夏草に 魂抜けし愛機かな


島根県  藤後 登美子

尋常高等小学校高等科の私達学徒動員30人のグールプは、島根県の静間海岸に臨時の塩田ガつくられ、其の作業に、静間神社社務所を宿泊所に起伏しておりました、朝5時起床で、塩田に海水を汲んではかける仕事を、勝つためと言われる先生かたを信じて、頑張ってっておりました。

塩田の 地肌あらはに大西日

**********************

引用元゛「昭和万葉俳句前書集 」 「高木二朗発行」

私の故郷 宮崎県でも塩田造りがありましたが、グラマン機の旋回でできなかったと記録があります。    「長 谷 敏 通」

終戦物語 父が戦死した日であつた

*********************
兵庫県 富士原 美佐子様
 
蝉時雨の中、人通りの全く絶えた昼下がりでした。国民無学校2年生の私は、其れが終戦を告げる玉音放送であったことを後で知りました。そして3年後の公報により、その日父が中支にて戦死した日で在ることを知らされました。父33歳。其れから8年後、幼い私達兄弟4人を残して母も病死しました。

終戦物語 ソ連軍の進撃



  ソ連の機械化部隊と其の移動「ソ連軍進攻と日本軍」著者 中山 隆志様 抜粋

アメリカ軍の「グラマン」


**************
昭和20年8月10日、朝早く、志布志湾沖の海上にいた航空母艦を飛びたつたアメリカ軍の「グラマン」という飛行機、3機は、吉都線(都城から吉松までの鉄道線路)ぞいに飛んできて、高原と小林の境にある広原という地区のふみきり付近で、男女4人のひとを機関銃で射殺し、また、西小林の駅前では、奉仕作業に行く途中の小学生の四列縦隊に並んだ列のまんなかに、子供たちと知りながら、機関銃弾を射ち込み、十名を死亡させ、十八名に重軽傷を負わせるという、ひどいことをしました。***********市田寛幸編集 「中・小学生のための えびのと太平洋戦争」より引用 


米軍機グラマンは、さらに西へすすみ、加久籐小学校をおそいますい。8月10日とい
えば、お盆まえの学校は夏休みのはずですが、戦いの激しくなった昭和20年生徒たちも、のんきに夏休みを楽しんでいられる時代ではありませんでした。加久藤尋常高等学校{当時は国民学校}でも、上級生たちは{祖国振興隊員}として、休みも返上して勤労奉仕(パランティヤ))にはげんでいました。其の日は、栗下の長谷さん宅ふきんに国のアルーコル工場が建てられる事になり、其の整地作業にでていました。
(中 略 )其の日、高等科2年生(今の中学生))の稲留 淳さんと、ほか3、4名の生徒体のちょうしが悪いなどの理由で、作業に出られなくて、教室にのこっていました。
稲留さんの教室は二階のはしから二番目の教室だったそうです。急にバリ バリ 
バリと機銃のおとが聞こエルト、ガツ ガツ ガツ     

2011年7月13日水曜日

終戦物語 終戦後ハイラルのある日

**********************
熊本県   田上千尋様

武装解除後、陣地を降り兵器廠に収容された、厳しい軍隊生活を終わる事になるが、絶望の虚しい抑留者としての生活がここにあった。日本はとうなったであろう過か将来はどんなになるであろうか、故郷の家族らはどうしているだろうか。

慰霊祭が執りおこなはれた。亡くなった戦友達の冥福を祈る。其の中には親しくしていた幾人の戦友もあった。ハイラルの戦闘で亡くなつた戦友は1、000人近く、全体の五分一か、連日10日間織烈な戦闘であったが、割に弾は当たらないものだと思った。

ハイラルでも毎日使役に出る。亡くなった戦友達の埋葬,物資の少ないソ連は、ありとあらゆる一切の物を貨車に積み込み国内にはこんだ。其の積み込み作業。ある日4名ひと組で、陣地に散った戦友の埋葬にでる。陣地の夏草の中に3名の知らない部隊の戦友の屍を探し埋葬した。野辺の花を一輪さして別れることになるが、これを最後に尋ねるものとて一人もあるまい。その墓辺は夏は夏草が生い茂り、冬は永い永い雪と氷の中に途絶されて、深い眠りを続ける戦友よ、安らかに眠り給え。

晴れた良い天気の朝、使役の為の作業整列、兵器廠の門内に5台のトラックに文乗出発を待った。ソ連の歩哨が門前を動衝していた。其のソ連兵が穴をみっけ、何かめづらしい物を発見したかのように、別の保の歩哨に声をかけて呼び寄せた、2人で暫くのぞいていたが、一人が銃で穴を中をつついたいた。瞬間もの凄い爆発音が耳をつんざいた。2人のソ連兵の姿は見る影もなく消え失せてすいた。私達はトラックの中にふせたが、立っていた戦友の剣つりに飛びちつたソ連兵の肉塊がぶらさがっていた。

一瞬の出来事に騒然となった。ソ連の上官が出てきて大問題となつた、作業も中仕された戦闘間に兵器廠の門の前に濠を堀り、敵戦車の進行に備えた急造爆雷がそのまま放置されたものであった。それをみっけたソ連兵、そして呼び寄せラレタソ連兵の命運を絶った一場面であった。日本軍との終戦を迎え、永い戦雲が全く晴れ全世界に平和の鐘が響いているとき、しかも戦勝国としての誇りもあり、吾々が明日もしれない抑留の身と事と異なり晴れの帰還をまつ故郷と其の肉親ガあつたソ連兵2人、つい先日ま敵兵であったが今考えるとかわいそうなまだうら若い2人のソ連であった。

シベリヤ抑留体験記 発行者城田敬助発行所全抑留中央連合会より引用

******************************

昭和60年6月16日求む 私の人生の支えになりましたみ。
23年 スホトカに3年の抑留 舞鶴港り復員 86歳  宮崎県 長谷

*****************************

2011年7月11日月曜日

終戦物語 死ぬこととは

**********************

新潟県 金子 しんや様

戦争程悲惨なものはない、聞けわだつみの声、平和程尊いものはない。平和の守り手、若人に老いの身が印し残しおく、正直のところ迷いながら敗戦の記録をしるす。

北鮮に程ちかい東満、延吉の第28歩兵部隊収容所での悲惨な状況、師団司令部で埋めた死体わ1週間で78遺体、部隊の丘に掘られた大きな穴に逃亡を計つて捕られた仲間達が、マンドリンで銃殺されてほりこまれた下士官、兵7名此の眼底に焼きついている。富濠では工場の内にいた千人余りの内、生きのこった者400人余り、毎日毎日が転がされている死体を運んで、河原に埋めるのが私の仕事でした、発疹チフスで大隊長や中隊長に気にいれられない私達31人ず取り残され,幸か不幸か、子茂山駅での作業はソ連へ抑留されて、病気になった人、送り返されてくる戦友の処理に、ソ連兵と収容する為の作業です、到着する気車「貨車}死体を送り還して来る、いな輸送中に息を引き取つたのだろう。唯一人の少尉が高熱にうかされてフラフラで申告しますなんて言うんです、死人特有のにおいが車中にただよつている。此の人は別の車で収容所へ移ってもらったが其の後の事は分からない500人ぐらい取扱わされた

まもなく図もんから来た30人程と、富濠では1人の仲間がソ連兵に射殺された興南でも一人外出中に射殺された、ソ連領ポシェット港へ上陸し小高い丘を行軍中に見たものは拉致抑留中死んだであろう戦友達の死の墓標、数へ切れない、おびた゛たしい「そとぅば」の森立、今でも8月の盆が来ると祈らずにおられない。

幾度酷寒を過ごし帰国を間近にして今一つ悲しい思いでを書いておかねばならない。同じ日本人の仲間同士で在るはずなのに故国の土を踏めるとカザックから、ナホトカに集結時のことアクチーブと言う成り上がりのカブレ者達、暖かく迎えてくれるのが゜人の道であるのにこの者達は露助と同じように憎みても憎み足りない、せっかく2000人連れだって海の見える所まできたのに彼等アクチーブの奴、教育が足らぬと再度シベリヤに帰れと命令しょつた。運良く我々を送って来た政治局のマルチヘノフ中尉にあった先の400人はシベリヤへ再教育としようして車中の人になつた、悔しかった事だろう。400人と
分かれて1600人は故国の土をふみしめたが分かれた人達の消息は今もってしれません、残念でたまらない、そして憎らしい事である、再び同じてつを踏まない為に人の命の尊そを叫び続けたい

************************

私長谷も抑留3年 同じ思いをしました 延吉収容所は私もいたです、海の見えるナホトカにたどり着いた感激は又ひとしおの思い出ががあります。迎えの船のタラップを踏む間では、何どんな事がおこるか分からない毎日でした、タラップの前にソ連の将校が立っており彼がダバイとひと声駆けられると、又引き戻されるのです、
外地での日本人が敗戦によりどの様な目に遭ったか書き残したいと思います。
                                                                                   {長谷」
******************************
シベリヤ抑留体験記 発行人城田敬助発行所全抑協中央連合会より引用

***************************

2011年7月10日日曜日

終戦物語 3年後の公報

*********************

兵庫県  富士原 美佐子様

蝉時の中、人通りの全く絶えた昼さがりでした。国民学校2年生の私は、それが終戦を告げる玉音放送であった事を後で知りました。
そして3年後の公報により、其の日、中支にて父が戦死した日であることをしらされました。父33歳。それから8年後、幼い私達兄弟4人をのこしてこ母も病死しました。母は43歳でした。

めぐり来る父の忌日は敗戦日

***********************

奈良県  笹岡 さかえ様

夫に3度目の召集がきたのは、忘れもしない昭和20年2月15日、体の弱い長男が、やっとお座りできた時でした。離乳食とて無く出の悪い乳房を夜通し含ませ、爆音にふるえながら、疎開先「奈良県忍海村」での毎日。やっと手に入れたミルクを温めようと、夜、火を使って警察に呼ばれ、ひどく叱られたおもいで。

千人針 求める街の辻炎暑

昭和万葉俳句前書集 発行者高木二朗 発行所マルホ株式会社より引用

*********************
戦争の銃後を守る人達の様々暮らしの苦しさを耐えた事が分かります 「長谷」

*********************

2011年7月9日土曜日

進駐軍が防空壕の中まで調べにきた

********************
満州満鉄で働いていたが、カツケにかかり二月島から島をめぐり、内地に引きあげる。終戦は実家で、生きてかえって良かったと胸がふるえた。昼間精米にいっていた山あいのむこうに山火事があったと見たらが其の色は黄色か紫かよく言え無い原子爆弾であった。

長崎におらずによかったと思った、弟は爆弾にあつた。終戦のラジオはきこえなかった 。進駐軍が防空壕の中まで調べにきた。怖ろしかった。満州に残った友たちは丸坊主でかえってきた

語られた方は終戦の歳 20歳   平成23年家族に看取られて永眠去られ
りましたご冥福をお祈りします

[私の終戦」 著者  長谷敏通
***************************

兵庫県 中田 節子様

兵庫県赤穂町国民学校訓導、児童数1500人、広い運動場は芋畑。空襲を受けた浜松高射砲隊が移動してきて駐屯。教室は兵舎に、校庭の芋畠に高射砲が何機もならんでいました。上級生は工場へ、下級生は軍馬の草借、山から薪ヲ背負ってつて、直接軍へ奉仕しました

軍馬草刈り来し児等を抱いて泣く

昭和万葉俳句前集 発行者高木二朗 発行所マルホ株式会社より引用
*************************
私の故郷は宮崎県ですが、私の村の校庭にも「さつまいも」、薩摩語で「カライモ」とよびますが植えてあつたと聴いております 。厳しい食料難がしのばれます。   長谷

************************

2011年7月7日木曜日

終戦物語 汽車の屋根まで乗って兵隊さんは帰る

*********************

宮崎県 畠山 サミ様 当時15歳

私の家の近くに山がありました、兵隊さんが多数来ていろんな物を利用して住まいを作り訓練に励んでおりました。私は父に連れられてゆきましたテントの入り口に
は竹槍を持った兵隊さんがたっていました。
中には一番偉い方で。夜には私の家の風呂に良く来られて父と話をされておられました。父が里は何処ですかと聴いたら群馬県ですといわれました。8月15日にラジオを聴きに来られて終戦を聴かれ。日本は負けたと畳を叩いて泣かれましたその事は未だに忘れられません。
帰られる時家にこられて涙をながして残念だと云われてかえられました。汽車に乗って帰られる時屋根の上まで乗って帰られた事は悲惨に思います 戦争はしていけないと思います。

(私の終戦 )著者    長谷敏通
***********************

大阪府   水野 恵以様

堺市金岡大阪陸軍病院外科第25病棟勤務。ただ一人の兄が戦死。御国にご奉公の一念に燃え、陸軍病院に志願。白衣の天使として一心不乱、一億火の玉゜「ほしがりません勝っまでは」と、青春時代を捧げ、大和撫子と咲き、また、散るよう訓辞を受け、両親宛遺言遺髪爪を見につけがんばりました。

玉音や冷水あびし思ひにも

昭和万葉俳句前書集 発行者高木二朗 発行所 マルホ株式会社より引用

*********************
国の勝利を信じていかに頑張ってか当時の気持そのままです。

*************************** 

2011年7月6日水曜日

終戦物語・主人は子が三歳になった時無事かえりました

*******************
大阪府  竹川 ふさ子様

昭和18年3月結婚、1か月後夫出征。留守中に出産子を姑に預け、近くの授産場へ勤務、作業服の仕立てに従事。8月15日当時、給食があり、丼鉢一杯の雑炊、
其れが何よりの乳飲子を養う糧でした。その日当番の火を止め、作業場を片付け、
全員50名ばかりが直立してラジオを聴きました。一同泣き泣きました

その後場長の挨拶即日解散、家に走って帰り児をしかと抱いたあのとき気持ちは今も忘れません。南方スマトラにいた主人は子が3歳になった時無事帰りました
 
夏雑炊 火を止め正座ラジオ聞く

昭和万葉俳句前書集 発行者高木二朗 マルホ株式会社
********************

大阪府  服部 和子様

防空壕の毎日が続く暗い灯の夜、堺の町に降る焼夷弾。昭和20年7月10日あちこちに嗚咽の声。夫は満州に抑留、3人子供と共に死闘の連続、ソ連参戦、8月15日ついに敗戦の玉音をラジオで聴く。其の日は日本列島は晴れいた。

焼夷弾 花火と見ゆる火の雫

昭和万葉句前書集 発行者高木二朗 発行所マルホ株式会より引用
********************

戦時下銃後を命がけで子供とともに夫の無事を願い、苦労された多く女性がおられたことと想います、今の繁栄の影にお母さん達の大きい力がありました事に感謝申し上げます。  「終戦物語」著者長谷、
*************************

2011年7月5日火曜日

終戦物語 戦艦武蔵沈没をしる

*********************
宮崎県    林田 一夫様

終戦は上海。昭和18年まで、徴用で三菱長崎造船所で戦艦「武蔵」の偽装工事に従事していました。戦後あの巨大戦艦「武蔵」がフイリッピンで沈没した事を知り驚く。昭和19年1月15日熊本西部21部隊山砲兵として入隊 10日後北支山西省に遠征 3546部隊の配属1期の検閲は中条三脈の麓で受ける思っても居ないはじまりであった。

休む暇もなく中支で作戦中の本隊遂及が始まる石家荘付近より黄河の鉄橋を渡り中支の信陽。 武昌。まで昼夜の別無く苦闘の強行軍だった。武昌に1月いて   作戦に参加する。私は幸か不幸か病魔におかされ同庭湖近くの野戦病院に入院、武昌。安慶。南京。無鎮と転送される上海の登部隊に転属になり上海にて無念の敗戦となる内地送還復員まで連合軍の使役に耐える。

上海は諸物資が豊富で連戦 連敗であった筈の中国の低力を身をもって体験する。昭和21年1月8日頃米軍のL.S.T.上陸用艇母艦り乗船。佐世保に向かって出港海の色はカツ色青となる。

九州が見える頃には紺碧となり国破れて山河在りと胸中複雑となる。敗戦により内地に帰還したといえ戦死 戦病死の戦友を想い感涙にむせぶ。復員後苦労を供にした妻を今から想うと時突然なくし呆然となりしが子供達又回りの人達の支えに助けられ強く生きと願う。

戦争は絶対にさけよ。するな。 平和が一番と大声で叫びたい

************************
「私の終戦」(長谷敏通著)より

***********************
大阪府    島津 正史様

満蒙開拓義勇軍、終戦の年、高等科2年の2月入隊、14歳。狭い日本、和歌山では農業の土地分けも出来ない事情もあって志願。茨木県東茨木郡内原の日輪兵舎の生活。終戦の日は快晴、朝より暑い日照り、軽馬「2輪車で馬にひかせる2乗りの車」で水戸街道を伝令で走っていた。

蝉時雨 終戦伝う 砂煙り。
当時政府は、満州の楽土建設を高らかに宣伝若者達えの夢を抱かせました、おおくの人達が将来に希望を抱き渡満しました、筆者もその一人です、結果的に敗戦にて悲惨な犠牲者が出ました、戦争は無慈悲な犠牲を出し人生を狂わせます絶対に戦争はおこしてはなりません。

*********************
************************
昭和万葉俳句前書集 発者高木朗 発行所マルホ株式会社より引用

2011年6月30日木曜日

終戦物語 奈良の航空隊現在天理市

**********************
絵柳 益夫様 宮崎県

陸軍 海軍に志願する。海軍より合格通知が早くきた。そして後から陸軍よりも通知があった。昭和20年6月13日
栗下を後にする。加久籐1名 真幸2名だった。6月15日奈良航空隊に少年航空兵として入隊。7月頃から空襲が激しくなる。20年8月15日、奈良航空隊練兵場に全員集合して天皇陛下のラジオ放送を聞く。一同声無く胸中張りさけるものあり、
全国より志願せし第64分隊245人を集め、国の再建は君達にあると分隊長の訓辞があり、滅私 奉公 国に殉する事無く一週間かかって栗下に復員する。
.帰路貨車であったがあったが広島の原爆の跡を垣間見る事が出来て其の光景は忘れる事はできない。近所の山林に石川部隊こが残留していた。空に雲を引いて飛ぶ     
B29 を見上げ、何か空しい気持ちとなる。宮崎空港 今の赤江などで作ぎように従した事が思い出される、復員後は家で農業にはげんだ。昭和61年栗下区民生委員を拝命、戦後を支えた人達も高齢者となられ、これからは福祉社会への杖となる事を願った。氏は長年の民政委員として市より特別表彰をうけられました。

現在もご 元気にて区民の信望を得ましてご活躍されておられます

 「私の終戦」長谷著者より

******************************

2011年6月28日火曜日

終戦物語

********************
子供達に竹細工を教える

軍歴 海軍佐世保機関兵入隊、現役で入隊駅前で多数の見送り有り、代表で挨拶した事が今でも忘れる事が出来ない。海軍は軍艦で甲板掃除が大変だった。250メートルの甲板洗い、竹ムチできたえられた。空襲は度々あった、軍艦でなく近くの工場が被弾した。幾度か乗船をくりかえした。出て行く船は途中で撃沈された様だ。制空権がないので大勢の戦友が死んだ。千人針の腹巻を巻生きては帰らじ
と決意で行ったが、途中で船が満員になり3回家に帰った。3回の帰省で終戦を家でむかえた。家の付近には大阪の兵隊が沢山いた
 
生前
は高齢者クラブ会員として、育成会との交流には積極的に参加されましてその竹を利用した物作りには、子供達には素晴らしい経験を与えました故人となられましたが、其の冥福をお祈りいたします。

「私の終戦」著者長谷敏通

*****************

茨城県 竹川 浩様
私は昭和19年9月、宇都宮東部第40部隊に入隊、野砲隊として、厳しい訓練を受け、終戦当日は、栃木県下都賀郡奈佐原に駐屯していた。終戦の玉音は、村の中学校で拝聴した。この時慟哭し、自刃をはかった若き中尉をわすれない。

   鞘はしる自刃の将の剣の露
****************************


昭和万葉俳句前書集 編集マルホ株式会社発行者高木二朗より引用

終戦当日の混乱がいかに大きな衝撃を与えたか、胸詰まる思いです .長谷

2011年6月27日月曜日

終戦物語郷土終戦語り

*************
郷土の部隊、都城23連隊後西部17部隊「宮崎県」は中国各地での戦闘に参加、昭和18年にはソロモン群島のブ-ゲンビルへ転進し、ここで多くの戦死も者を出していいる。「筆者の義兄北野與三朗大尉機関銃隊戦死宮崎県西諸方郡加久藤村終戦当時住所」 西川北地区「加久藤村の地区名」では、明治35年生まれから昭和5年生まれの少年兵まで、地区228名の男子の内1136名『6割」が出征し、その内27%が戦死いている。特に大正生まれれは7割が召集を受け、其の4分の一が戦死している。4月には本土決戦に備えて満州から国部隊が西諸全土に配置され、様々な軍への協力をしてきた、又60歳位上の年寄りまで、都城志和池の飛工場作りに動員されている。物資欠乏の為真幸村は塩田開発隊を組織し、西川北からも代表が出て、宮崎の広瀬の海へ2回出かけたが、米軍のグラマンが頭上を飛び回つて、使命を果たさずに帰ってきている。8月には小林で戦闘隊の結成式があり、女の人も竹槍訓練にかりだされていた。「竹槍は戦国時代、本能寺の変のあと土民に襲われた明智光秀の頃の話である」衛生状態も悪く8月には地区に赤痢が発生し、死者まで出ている。

昭和20年の平均寿命男性23,90歳 女性37,50歳という数字は、戦場で、空襲で又乏しい食料,医療の中で死んでいった若者や幼い命の故である。今日繁栄のもとに、どれだけ多くの犠牲があったか、戦後60年を過ぎて知る人も少なくなった極寒のシベリヤで、熱帯の密林で尊い命を落とした人が、現在の我々の暮らしを見たら極楽浄土に見えるだろう。

いじめや自殺が話題となっている今、戦争を知っている高齢者はもっと若者や子供達に昔の話をしてやるべきではなかろうか。
**********
「えびの第45号」創立40周年記念号「発行者 えびの市史談会記事引用

【山下常昌氏紹介】
第八代の史談会長は、温厚な人柄で、「人に頼まれれば、いやの出来ない性格で・・・・」と云われるように、史談会の会長も快く引き受けていただき六年間も会の為に尽力していただきました。

その間にもえびの市社会福祉協議会の依頼を受けて、「えびの福祉作業所」の設立に尽力され、立ち上げられると、初代所長として運営に努力され、当初、飯野中央公民館の南にあった場所から、大明司保育所の跡に移転され、事業を軌道にのせられました。

また西川北の民謡芸能である「鏡とぎ踊り」を福活、子供達に継承されるなど、多方面にわたって尽力され、其の功績が認められて、平成22年の「えびの市制40周年記念式」で教育・文化部門の功労者として表彰をうけられました。

なをこの時、えびの市史談も表彰を受けました。長谷も「私の終戦」の発行に当たり 「発刊によせて」と有難い祝文をいただきました。

2011年6月24日金曜日

終戦 物語 空襲と戦闘による者続き

********************
宮崎県 山下常昌様
郷土では
郷土の部隊、都城23連隊後西部17部隊は中国各地での戦闘に参加、昭和18年にはソロモン群島のブ-ゲンビルへ転進し、ここで多くの犠牲者を出して居る【私長谷の義兄陸軍大尉北野與三朗ブ-ゲンビル島トロキナにて戦死】西川北地区では、明治35年生まれから昭和5年生まれの少年兵まで、地区228名の男子内136名6割が出征し、その内37名 27%

2011年6月23日木曜日

終戦 物語 空襲 戦闘での死者

********************
宮崎県   山下常昌様
平成3年、東大の図書館にねむっていた秋丸機関の名が初めて世にでた。其の秋丸機関の予言よりも早く、開戦後1年を経ず敗戦のきざしは見え始めていたここで改めて昭和20年を振り返ってみる。昭和史年表によると大本営は240万の防備隊を編成して本土決戦の準備を始めた 3月334機のB29、東京を空襲、死者84,000人 罹災者150万人 消失戸数23万戸 主要都市への無差別爆撃がはじまった。都市の内40%が焼かれ、25%の住宅が焼失し、空襲による死者・行方不明33万人 負傷者34万人 焼け出された人は880万人にもなった。東京空襲での死者84、000人はえびの市23,000人 小林市40,000人 高原町10,000人 野尻町8,500人の合計よりも多い数である。これだけの死者はどのように処理されたのだろうか、年表によると、3月、形政憤激挺身隊「囚人141人で組織」、錦糸公園付近の戦災遺体処理に初出動、一穴200体収容の大穴10個を作り、遺体をトラックで搬入し、埋葬と有る。

おそらく全国主要都市での空襲による死者33万人も同じように処理されたで有ろう。・3月、政府、「決戦教育措置要項」で、国民学校初等科以外の授業を4月から1年間停止。・4月、米軍、沖縄本島に上陸開始。・6月、沖縄前戦で、負傷兵看護に従事した師範女子部と第一高女の生徒49人が集団自決「沖縄戦での集団自決があい次ぐ」6月、沖縄での日本軍全滅、軍人軍属の死者12万人、一般県民の死者約17万。・6月 義勇兵役交布本土決戦に供え、男子15-60歳、女17-40歳の者を国民義勇戦闘隊に編成。8月、広島に原爆投下、「年末までの死者推定14万人」、8月ソ連、日本に宣戦布告、満州へ進撃開始、関東軍75万のうち捕虜50万人、8月、長崎に原爆投下、゜「年末までの死者7万人+-1万人。

此の大戦での犠牲者
戦死者・行方不明者    186万人
負傷者          468万人
一般市民の死傷者      67万人

前編終わり 著者山下常昌 「えびの第41号」発行者えびの史談会より引用



  

****************

2011年6月21日火曜日

終戦 物語 敗戦 復員 父の死

**********
20年8月15日 全員にて敗戦を聞く。交戦を主帳する声大なるも大勢は無条件降伏の止む無きに至る。一時現地人不穏な空気あれど大きな混乱はありませんでししたた。武装解除は平穏にイギリス軍の立合でした。驚いた事に婦人の軍人が多い事でした兵隊は黒人兵でした。半年ばかし食べる事に苦労しましたが、後から改善されました。二年以上の抑留でしたが、使役は 荷揚 便所汲み 道路作り 洗濯でした。必勝を信じ若き血潮を祖国に捧げんと国を後にしましたが果たせず、22年10月1日シンガポ-ルで復員船に10月14日、宇治港上陸して無事復員し現在に至っております。


父の死
南方に出撃前国富の宿に父が面会にきました。滅私奉公生きて帰らじと涙をながして励ましてくれました。今子を持つ身となり私自身頼りの子供  (宇宙に衛星打ち上げ業務)優秀な青年でした病にて早く無くなりました」を無くした今励ましてくれた父の胸中を思い複雑な気持ちです。命長らえ帰還せしも父の姿無く私の命と
換であったとしか思われません。復員後宮崎復員局より通知が有り引揚金支払を受け取りに妹と出かけました。宮崎は焼け野原でした。支払金は以外に少く妹との約束どころか帰りの旅費もやっとで帰る事ができました。終わります。
*****************
(私の終戦 2)    長谷敏通著

2011年6月20日月曜日

終戦 物語 続き 特攻機 志願

戦局が厳しくなり、20年3月全員があつまり特攻機について上官より詳しい説明がありました。上からの命令で無くあくまでも君達の判断であると個人的にすべての家庭的事情間で話しあいました。決断は全員が目隠する事になり、志願する隊員は手を上げる事になりました。私迷う事無く右手をあげました。後日お互いに胸中を話し合いましたが複雑なものがありました。

私は新田原を出発する前父が面会にきました。特別の許可をえて宿で父が戦地に行く私に滅私奉公を説き命は国に捧げて来いと言われました。

時局といえ当時の父の胸中を思い私も子を持つ親となり時代の流れと平和な今を有難くおもいます。戦時中は出征兵士の家の庭には必ず大くて長い竹に日の丸をつけて立って居ました。父母がどんな思いで見ていたか知る由も有りません。連合軍の攻撃は激しく昼夜とはず其の物量には抗する事出来ず、決死の覚悟で待機せしも、出撃の時無く無念終戦と成りました。知覧特攻平和会館に一番機で出撃した戦友の大村小尉の遺影があります。私は出撃する事無く帰還しました。

中編 終わり

    「私の終戦 2号」 (長谷著)より

*******************
北街道 吉田 龍耳 様

終戦の日、上官である校長から其の事実をしらされ、みんなで号泣した。処は滋賀県 大津市にあった陸軍少年飛行学校、16歳の少年は、空駆ける職業軍人を夢見ていたのである。大空にこそ死
に場所があると信じていたのである。

  少年兵 死を阻まれし 終戦日  
*******************
   昭和万葉俳句前書集(発行者 高木二朗 発行所マルホ株式会社)より引用

2011年6月19日日曜日

終戦 物語 戦闘機操縦士 当時18歳終戦マーレ半島 アロルスータ

18年 10月大刀洗陸軍学校入校。滋賀県大津少年飛行兵学校入校。昭和19年7月20日ー大刀洗陸軍飛行学校卒業。19年8月新田原より重曝機に7人の戦友と南方戦線に向かう途中台湾をへてクラーク飛行場着「19年8月」 伍長拝命10月1日。19年10月22日 マニラ港出発。11月3日シンガポール上陸。20年3月泰 ・仏国境通過20年3月9日マレー半島アロルスタ-基地。6月9日南方軍第一行航空隊戦闘機操縦士となる。

訓練 郷土訪問飛行
大刀洗での訓練はグライダ-での訓練でした。60人の戦友が力を合わせ大きなゴム紐を引き反動で上に飛ぶのです。はじめは地上を滑るだけて゛したが少しづつ空に上がる様になりました。飛行兵
としての気持が強くなりました。

宮崎移動 初等練習機での訓練 
宮崎への移動が有り練習機での訓練を受けました。高千穂の峰上空での訓練飛行でしたが、教官の厚意で加久藤の母校上空を2度も飛ぶ事が出来ました。私に取っては夢みたいな出来ごとでした。フィリピンのクラークにて約4ケ月97式戦闘機の厳しい訓練を受け、戦闘機乗りの飛行兵となりました。連合軍の攻撃織烈となりました。 前の語り終わり 続きとします。

    「私の終戦」 (長谷敏通著)より

********************
愛知県 鈴木七朗様

7月20日の空襲により家は灰燼に帰し、私は瀕死の重傷を負い、まだ臥床中で、勤務先の東海銀行を休んでいた。ようやく近所に焼け残った家を借り、同じように被災した親族二家族と、隣家の
一家族の15人が雑居中で、飢餓生活の最中で、8月15日当日御前崎の防備隊に召集されていた弟が私の見舞に来ており、天皇の詔勅を聴いて戦争は終わったと飛んで帰って行った。

   けふをある命一つを雲の峰

*******************
  昭和万葉俳句前書集(発行者 高木二朗 マルホ株式会社)より引用

2011年6月18日土曜日

終戦 物語 女学生ながらも モンペ姿に軍帽

*****************
静岡県 杉山雅子様

学徒動員先の日本兵器廠豊橋工場空襲で焼け、幸田工場へ、しばしば汽車が動かず、線路づたいに歩いて通勤しました。玉音は、夏草茂る工場の空地で。女学生ながらモンペ姿に軍帽。一途に国を思い、国の為に一生懸命働きました。
 
    青春のぽかり穴あき夏の雲

****************
愛知県 安藤幸子様
終戦当時、私は国民学校四年生の夏休みでした、幸い戦災もうけず、当日は自宅の庭で、近所の人たちと玉音放送を聴き、これで南方の父も帰ると喜んだののでした。奇しくも二年後、父の戦死の公報は終戦の日でした。

    終戦日寡婦となりたる母老いし

****************
     昭和万葉俳句前書集(発行者 高木二朗)より引用



戦争で多くの人が亡くなりました 待ちに待った夫の戦死 戦争は残酷 無情 残された人達の苦労はいかばかりで合った事でしょう。

    終戦時 平均寿命 男24 女38 悲しい事実

2011年6月17日金曜日

 終戦 物語 ノン と シタメ

****************
人の血を吸って生きる物に蚤と虱がいた。ノンは赤茶色か飴色で光沢があり胡麻より小さく230センチは軽くとんだ。肌着にいて逃げるのが速「蚤一匹若い女を裸にし」とか云う川柳も有り、指に唾を付けて素早く抑えないと次に飛んでいった。畳で繁殖するとも言われ、臼庭にも沢山いて、足に飛びついてぞろぞろと上ってくるもだった。ノンの多い家少ない家があって「どこどこの家はノンが多かがなー」といつたりした、夏にいた。  シタメには髪の毛にいる黒いのと肌着にいる白い衣虱が板。男は皆丸坊主だったのでいなかったが女の子の髪に沢山いた。母親が取ってくれたり姉妹で取り合ったりしていた。

頭を洗わ無い人に多いようで親の注意や生活程度とも関係があるように思えた。ビンダレ『木製洗面器」に湯を入れ上半身裸で髪を洗うのをよく見かけた。頭の地肌か髪の毛にしがみ付いており、爪でしごき取り縁の板の上の上等で親指の爪で潰すのだった。

衣虱は満州から兵隊が持って来たとも衣われていた。冬の寒い時季に肌着の縫い目におり、体のあらゆる所を刺すといぅか吸い付いて血を吸うのであった。肌には赤い吸口が沢山出来、痒いので常に体を動かし「シメタ踊り」と言う新語もうまれた。繁殖が早くシャツ等の縫目に何十匹もいて両手の親指の爪で潰すと爪は血で真赤になるのだった。またシメタも白いのに血を吸って腹が赤くなっていた。又縫い目には何百個もの白く光る卵を生み付けていた。とても取り切れないので母は下着を風呂に入れて煮るのだった。それでも何日かすると湧く様に繁殖しシメタ踊りをさせられるのだった。米軍がDDT殺虫剤を持って来て絶滅したようだった。 
*****************
  「第33号 えびの」(発行者えびの市 史談会 江藤則男編集)より引用

シラミ.では私達ソ連での抑留 生活で シラミの大軍には手をあげました、江藤さんの話と全く同じで大変な苦労しました今では笑い話になりますが、熱が出でて苦しむ戦友もいました。後ではソ連側の協力でおらなくなりましたが、鉄条網で囲まれた捕慮と故郷の人達と同じ苦しみをした事は語りつぎたいと思います。

2011年6月16日木曜日

終戦物語 兵庫県

***************
姫路市 中村登様

8月15日、茨城県筑紫郡、振武特攻基地。筑紫山麓飛行場警備の為、陸軍衛生兵長として、東部第188部隊配属独立機関砲部隊の要員勤務。看護衛生に服務する。当時年齢25歳。敗戦の玉音放送を聴く、上空晴天敵機無し、心は暗く,炎天下の兵舎と裸の兵隊と戦争の空虚と命の安堵を痛感して、夏の夜の月明かりと、筑紫名物の蟇の声を深更まで聴いて、ねむれむ夜であった

   命抛つ一機の影や雲の峰
****************
奈良県 牧建様

橘部隊に所属し、茨城県河根村で,初年兵教育を民家に分宿しながら受けていた、終戦当日は、空襲警報発令中で、米艦載機が超低空で飛び、玉音放送をとぎれ とぎれで聴いた、そして本土決戦を誓い合って、銃を握りしめた。

   聞きにくき玉音へ 「気を付け」す

*******************
 昭和万葉俳句前書集(発行者 高木二朗 発行所 マルホ株式会社)より引用

    敗戦の思いは 場所また其の状況でいろいろです。

23年6月14日 晴れ 終戦物語グラマン機の惨劇

麦の供出をするために荷馬車に麦を積んで、駅前の農協倉庫に向かっていた、
坂元、芋畠の白坂盛行さんは、突然、東の方からこちらに向かって八幡ケ丘
れすれに飛んでくるみられ無い飛行機が眼につきました、其れは見る見るまに
近づき、ダツ ダツ タツ゛とおおきな音で機関銃を発射すると、グ-ンと眼の前
の赤松林をさけて急上昇して西の方に飛び去りました、駅前の作業員所と其の
周辺には機銃の弾丸の後が18ケ所もみっかったと言います、其れはいっしゅんの
出来事でした、其の時、危ないと感じた白坂さんは、とっさに荷馬車の下に身を伏せ
ました、我に返った白坂さんが、馬車の下からはい出てみると、馬の腹に機銃弾が
命中して腸が飛び出し、地べたまでたれさがって息もたえたえでした、白坂さんは
荷馬車の延べ棒をはずしてやると、とりあえず芋畑まで5キロの道を走りましたが、
暫く立っていた馬は ヒヒ ーンと一声なくと、力っきてぱったり倒れて死んでしまい
ました 又荷馬車に積んだ麦のカマスを機銃弾が射ぬいて、荷馬車の心棒に当たっ
ていましたが、飛び散った弾丸の破片が白坂さんのふもとももに、2個入つてした、当時、芋畑には、
飛行場を作る為に、航空部 建設部隊が入っていましたが、隊長は、飯野橋、東
たもとに有る 飯島石油店 の前社長 飯島正三さん 元陸軍大尉 でした
飯島さんは、駅前の状況を受けると、部隊の軍医 草場中尉の治療を受けました。
グラマン機はさらに西へすすみ、加久藤小学校をおそいます、8月10日といえば、お盆前の学校は休みのはずですが、戦いが激しくなつた昭和20年、生徒達も、のんき
に夏休みを楽しんで入られる時代では有りませんでした、加久藤国民学校「当時名」
上級生達は 「祖国振興隊員」として休みも返上して勤労奉仕 「ボランティヤ」にはげ
んでいました 、其の日は栗下の 長谷さん宅付近に国のアルコール工場が建てられる事になり其の整備作業に出ていました、当時学校の向かいには、現在の市役所正
門の所には立派講堂が有り、歩兵第40連隊の兵隊さんが入っていました、「中略」
その日は高等科2年生の 稲留 淳さんと、外に3、4、名の生徒が体のぐあいが悪く
教室に残っていました、稲留さんの教室は二階のはしから2番めの教室だったそうで
す、急にバリ、 バリ、 バリ、と機銃の音が聞こえるのと、ガツ、ガッ、ガッ、と校舎の
板かべがうち砕かれるのとほとんど動じて、何が起こつたのか考えるひまもありませんでした稲留さんは、グワーンと何かに叩きつけられたようなショツクを体ぜんたいに
うけて床に倒れ込みました。ひめいを聞いて、下から兵隊がかけ上がって着て、応急手当の止血をしましたが、銃弾の一発は右足ふもとの付け根を右から左へ突きぬけていました。そして破裂した一発の銃弾の破片は背中の肉にくいこみ、右腕のひじの
部分を切り先、左腕も傷つけました。栗下にいた中俣先生は、同級生の福岡睦夫さ
ン達に「モツコ」を持ってくるようにいわれましたので作業場に投げ出してあつた「モッコ」をもって福岡さんと春口香取さんが走って行って持ってきて、稲留さんをのせました。「中略」駆け足のような早足で大溝原の池田病院へ向かいました。ようやく病院へ
着きますと、池田先生がすぐ出て来て、稲留さんを抱えるようにして治療室に連れて
ゆき治療をはじめ、ふとももの治療のほかに銃弾の破片四個を取りだされて治療は
終わりました。その間、稲留そんはそうとうの出血がありましたので、輸血しなければ
危ないと池田先生が云われましたが、いっしよについてこられた東高雄先生は、自分
の血を取って輸血をしてくださいと申し出られました。「中略」こうして、先生 同級生の
おかげで一命を取り止めた稲留さんは、鹿児島県の横川町で新聞販業をしておられ
ましたが、「今でも冬は傷あとが痛みます」と云っておられました。稲留さんの「第に次
世界大戦」は、まだ終わっていないのです。現在、加久藤の迫田病院の院長、迫田欽一先生も、その時いっしよに教室にいて、飛び散った銃弾の破片で右足に傷を受けられました。 
    中・小学生のための えびのと太平洋戦争 編集 市田 寛幸
                 発 行 所    えびの市民図書館より 引 用
 
私 「長谷」今でも現在地に住んでおります、当時の事は復員して母から聞くものでした、池田先生には診察していただいた事を思い出します、物の不自由な時代でしたが
隣近所助けあって暮らしておりましたと、近くのやまに大勢の兵隊さんが小屋をつくり
住んでいたと話していました、その頃私は、満州 北満の国境の山の部隊に7月に入
隊した裸の兵隊で、武器は無くスコップで壕堀でした8月9日頃と思いますが突然ソ連
機械化部隊が国境を越えて侵入して来ました、前線の部隊は善戦しましたが圧倒適な戦力には抗すべく無く通信不能となり私の中隊は後方の山に陣地を構えました、
下を走る見たことも無い重戦車 タイヤが6輪の車 日本車は4輪でした 、銃は自動
式、 其の戦力には抗する武器も無く後方に撤退するしか無く山の中を彷徨していました..苦しい日びてしたが離れれば死が待っています、国の身上申告書には8月21に
敗戦を知り、中隊は現地で解散しました、私は5人の戦友と山中で突然ソ連兵の撃つ
自動小銃で囲まれ最悪の状態で捕虜になりました、その時に背中 横に食い込んだ
ソ連兵の筒の恐ろしさは忘れる事はできません、シベリヤ抑留の始まりでした。
歩兵284連隊 第15283部隊 二等兵 長谷 敏通 宮崎県 留守業務部第一課
現住所 宮崎県えびの市 東永江浦633  86歳  23年 8月16日

2011年6月12日日曜日

終戦 物語 終戦はジャワ島 アリホン市 25歳

**************
えびの市 松岡 宗清様
徴兵検査118人、甲種合格は15人、その内の一人となる、支那事変に参加重慶まで進軍した、いろんな作戦に参加したが苦しい戦闘がおおかった、西小林の戦友が隣にいて戦死した、何時も故郷の話をしながら助けあい死ぬ時は供にとちかった仲だったが、其れからは仇を討ってやるんだと気持ちが強くなり、怖ろしい物はなくなった、馬の背に括りつけ運び野原で火葬した、敵の抵抗はしぶといものだった。

連日の雨、雷 水ぶくれ足は靴には入らず肩にかけ前々へと歩いた、腹にはローブでみんな結ばれていた、隊から離れると死が待っていた、迫撃砲は敵の自慢の武器だった、山の向こうから突然飛んでくるヤツカイな弾だつた、南方へ転身の命ありて上海港より確か12艘の船団の様だったが残念言葉無し、敵潜の襲撃に遭いほとんどの船は波に消えた、無数の兵が漂っていた海が燃えた、地獄とはこんな事かとおもった。私の船は不思議に浮いていた。引き上げる兵はほとんど命はなかつた。

連隊の損害は連隊名が消える程だつた、ジャワ島で敗戦を聴き、信ずる者はいなかつた、一周間ぐらいは皆あれた生活だつた、島には無数の猿が居た、上から椰子の実を投げるので鉄砲を向けると手を合わせ拝む仕草をするので、ドゥする事もできなか 、インドネシヤの独立に荷担したせいか引きあげまで武器は持っていた。

倉庫のけい備の任だった。二年間米飯とは縁がなかった。椰子の実を汁でおかゆみたいに作っていた。ジャカルタ入港、宇部港に復員、7年間の長い軍隊生活だった。

語ればつきない毎日が男の生活だった。体力が落ち歳を取った今できない事だが昔の自分に帰りたい。
**************
長谷敏通編「私の終戦」より 
14年 陸軍軍曹。天寿を全うされましたご冥福をお祈り致します。


**************
千葉県 関口 柳紫様
妹愛子は愛知県豊川市の海軍工廠に戦時動員され、終戦近き日、大爆撃をうけて、多くの人と一いっしよに一片の肉も残さず飛び散りました、未だ若き処女のまま幸うすい一生をおわりました、私は愛知県新城市に子供達と疎開して、夫は軍部に関係の仕事で東京に残りました、豊川と新城は近く、其の日の音を今もはるか夢の様に忍び何時までも忘れられません、病で入院、やっと命を得てこれをかきました。
 
     慰霊碑の灼け豆粒ほどの妹の名

**************
     高木二朗発行 昭和万葉俳句前書集より引用

2011年6月11日土曜日

6 月11日 雨 終戦物語 軍歌

ここは御国を何百里、離れて遠き満州の、赤い夕日に照らされて、
友は野末の石の下、思えばかなし昨日まで、真っ先かけて突進し、
敵をさんざん懲らしたる、勇士はここに眠れるか、ああ戦いの最中に、
にわかにはたと倒れしを、我は思わず駆けよって、軍律厳しいなかなれど、
是がみすてておかりょか、しっかりせよと炊きお越し、仮包帯も弾の中、
折りから起こる吶喊に、友はよぅよぅ顔あげて、御国の為がかまわずに、
遅れてくれるな眼に涙、後に心は残れども、残しちゃ成らぬ此のからだ、
それじや行くよと分かれたが、永の別れとなったのか、戦いすんで日が暮れて、
探しに戻る心では、どうぞ生きていてくれよ、ものなどいえとねごうたに、
空しく冷えて魂は、くに帰にかぇつたポケットに、時計ばかしがコチコチと、
動いているのも情けなや、思えば去年船出して、御国が見えなくなったとき、
玄海灘で手を握り、名を名乗ったのが初めにて、其れから後は一本の、
煙草も二人で分けてのみ、着いた手紙も見せおぅて、身の上ばなしくりかえし、
肩を抱いては口ぐせに、死んだら骨を頼むぞと、いい交わしたる二人仲、
思いもよらず我ひとり、不思議に命永らえて、赤い夕陽の満州に、
友の塚穴掘ろうとは、くまなく晴れた月今宵、心しみじみ筆とつて、友の最後をこまごまと、親御へ送るこの手紙、筆の運びはつたないが、行燈の影で親たちの、読まれる心思いやり、思わず落とすひと雫く
    引用  戦友 真下 飛泉 様 作詞

2011年6月10日金曜日

5 月10日 雨 終戦物語 

*****************
山形県  進藤 主税 様
青森県八戸市郊外の陸軍航空隊にいた、航空隊とは名ばかりで、飛行機無はほとんど無く、召集の二等兵である私は、水際作戦用の消耗品であった、殴られながら戦闘訓練をし、畑を作っていた、八月十五日の午後は仕事もなかった。

     ひそひそと 遠き夏の灯を見ておりし

*****************
千葉県  千田 弘子 様
青森市にて、ある夜は母の背に負われ、ある夜は母の胸に抱かれて、空襲警報下を逃げ回った、やがて焦土で迎えた終戦?無一物となつた一家の其れからの生活は、ひとり母の力に負うところが大きかった、40年の歳月が過ぎ、其の母もいない゛゛゛゛゛

     敗戦や女重たき荷を背負う

*****************
宮城県 菅野 久 様
其の日私たちの、登米郡米谷小学校では、焼畑開墾地へ蕎麦の
種をまく日であった、食糧増産ー夏休み返上の全校作業であつた。
高等科の生徒140名は、蕎麦種6袋を2台の荷車に積んで、学校
から4キロの山道を上り、現地に着いたのはひ高い9時頃であつた
休む間もなく種がまかれた、ひとやすみしょうと思っていた、小使さん
が来て重大放送の有る事をしらされた。

     焼山の開墾の日々夏休み

*****************
  昭和万葉俳句書集 高木 二朗 マルホ株式会社 引 用

2011年6月9日木曜日

終戦物語 千人針と竹やり忘れられない

父が出征中、母は5人の子供を抱えて頑張っていた、物資の配給が有ると
大きな袋を嬉しそう顔して持ち帰っていた母を思い出す、忘れないのが千
人針である、千人の人が一針ずつ白い布に縫っていき兵隊さんのお守りに
していた、虎は千里行って 千里戻るとの言い伝えから 虎年 生まれの人
は自分の年だけ縫っていたので、虎年の姉は7針も縫えたと得意になって
いた、近くの公民館では女の人が竹やりを持って 一歩進んで二進進む
の号令に併せて、藁人形めがけて突進していた、子供の私たちは飛行機
が飛んでくると高い所に上って大きな声で おとうさん と叫んでいた、
父は日は飛行機に乗っているものと思い込んでいた、其の父が復員して
きた日、何も知らない私は友達と高い土手から飛びおりて遊んでいた。
 とぼかい、なにかい、なによっかひっとべ といいながら
         えびの市  福 元 幸 子  主婦